悪魔の一番恐れる事とは

陰謀者が一番恐れる事とは

   にんにく じゃありません。


「人間が本来持つ偉大なる内なる創造力に気付く事です。」


これに気づかせないように、あの手この手を使って洗脳、いや濁脳操作を一生懸命やってきたスタミナは、決してくじけないファイトとでもあり、一種尊敬に値するかも知れません。


つまり、
人の想念や思考が現実の創造をしている

としたら、その想念や思考をある種の偏った思いこみに誘導すれば良いことです。

それには人が奥底に持っている記憶から「恐れ」を引き出す様な情報を与えてやることでしょう。

「恐れ」の中にはいろんな形態があると思いますが、そこに誘導するために、いろんな仕掛けをして、ある意味錯覚を利用するわけでしょうね。

マジックなどはまったく人の錯覚をうまく利用している訳ですが、それは人にはあらかじめ「思いこみ」というのがあるので、そんな思いこみを利用してやるのでしょう。


人がいろんな事で創造出来るのですが、それには思考を使っているわけで、その思考を誘導する為に「思いこみ」を植え付ける操作が必要な訳です。


いままで、それが実にうまく行って成功してきたわけでしょう。
そして、今や心ある人がそれをどう変えていったら元に戻す事ができるかもう手遅れだと思うくらい完成度が高くなってしまった「刷り込み」ですが、


実はこの奥にも仕掛けがあったという訳でしょう。

それは元々この壮大なゲームの中に組み込まれていた「仕掛け」だというのです。

つまり、ゲームの物語で言えば、もう最後の最後に追いつめられた主人公が、もうダメだと思う時点になると、その仕掛けが働き始めるというのでしょう。

九分九厘まで行くと一厘が動き出す仕組み

と聞いた事がありますが、その九分九厘の世界が今の状況のようです。


すると、自動的に一厘が発動し、その一厘が九分九厘を
まるで手のひらを返すかの如く、変えてしまう


こんな地球物語のまっただ中にいまこの僕も君も生きている真っ最中だと思うと

ホントにわくわくするのです。

が、実生活の心配ばかりしていて、ちっとも気づかないのは・・・


やはり、その刷り込みで偏った思いこみで創造しているからかも知れません。


でも心配はいりません。

光は闇を消すと言うように、光がもの凄い勢いで増えているそうですから。


知らずの内に、刷り込まれた思いこみが浮き上がって来ますから、誰の目にも分かる様になります。

              創造主@himaari
              
              もち、
              
              創造主@あなた


う〜〜む、肉食も好きだし、酒も女も・・・

                刷り込み@himaari


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー


14.悪魔崇拝主義者の煙幕思想(2006.07.04)

 悪魔崇拝主義者達がもっとも恐れる事は、
 
 
 人間が本来持つ偉大なる内なる創造力に気付く事です。



地上世界をコントロールしようとする闇の勢力は、人々が真実に辿り着けないように様々な虚像と幻想を振りまき、真実の姿を隠す為に煙幕を行ってきました。


 近年、ニューエイジ、精神世界へと拡大していった思想の流れの源に神智学、人智学があります。

彼らの摩訶不思議な行動、理解する事を困難にするオカルト的思想というものは、



人間精神の奥に内なる神への扉があり、それが全てを創り出しているのだと言う事を悟らせないようにしているのです。



肉体人間といえども、元をただせば、光の粒子の振動数が変化したものであり、振動数の低下した姿をお互いに観ているにすぎません。この個人の周波数を高めれば高める程、霊界との参入はしやすくなり、アセンションへと導くものでもあるのです。

その為には精神だけではなく、肉体そのものも浄化していなければならないのです。

その大切さは、ひふみ神示や私が最近紹介した、「超シャンバラ」にでてくる地底都市テロスのマスターである、”アダマ”も肉食を戒めています。哺乳動物の死体を食する事は波動を粗くし、振動数を低下させる原因となっています。


 人間の身体を霊的に分析すると、光の粒子が右回転をしながら周り続ける駒のような存在形態をとっています。

その形態からそれぞれ固有の波長を出しているのですが、安定して美しい回転を維持できる程に健康で若い肉体を維持し続けるのです。

それが、外から摂る食料というエネルギーの質により、回転する光の粒子に狂いやバランスが崩れていく結果となり、病気や老化の原因となっているのです。



 この食に関する重要性が神智学、人智学に一切出てきません。(私の知るかぎり)ブラッバキーやシュタイナーは、「内なる神」を探究する事ではなく、幻想の中に人間の思考を置きつづけようとする事が彼らの使命であったとみるべきでしょう。


今までも、そしてこれからも、彼らの思想からは、悟りたる者も真の平安を得ている霊覚者も現れない。ただ、来るのは人間を奴隷としてコントロールしたいとする、カルト教祖だけである。

続く〜

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー

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見破られたオカルトの手法

続き11

すべての源は

外の神と内なる神の認識の違いなのでしょうか?

一切の宗教の源となっているのは、外なる神を崇拝する事で始まっている様です。

もっとも外の神でないと、宗教組織は持ちこたえられない事になるのでしょうね。

内なる神
とはどこの宗教でも言ってはいるんでしょうが、事実上、それを主にしているものではなさそうです。

やはり、日本の古神道が鏡をご神体にしていたというは、鏡に自分を映して内なる神との対話をするという意味だったのでしょうか?

それがいつの頃からか、人や物に替わってしまった。

いま内なる神と言っても、なかなか自分にそんなものがあるのかと疑問を持つほど
、はるかに永い間の刷り込みにあって来たからでしょうね。

いや、それ自体も今までの冒険旅行のゲームにおいては必要だったと言えるのでしょうか。それ自体を選択して来たという。

ずっと内なる神を認識出来ていたら、今の様な世の中にはならなかったでしょうし、だいいち壮大な落ち込みゲームの舞台も出来ないから、冒険も体験もできなかったでしょう。


悪というよりも、いままではそれで良かったけど、今はもう要らない設定だと考えることでしょうか。


薬という毒を使って来た医学信仰も、今まで必要悪だったけど、これからは不必要悪だという事でお仕舞いになるのでしょうね。

それも各自の選択でしょうけど。

まだまだ、体験が不十分だと思う方はいずれの星で舞台は用意されているそうですから、まだまだ充分体験される事でよいのでしょう。

ただし、この地球上ではもうそういう芝居は終演を迎えているという様ですから、地球様がいまその意思表示をしている真っ最中の様ですね。

と偉そうな事言っている僕自身・・・・・・・

以下を読んで打ち震えている最中でして・・・




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

13.使い古されたカルトの手法。(2006.04.09)

 どのような宗教カルトであろうと、必ず同じ結果をもたらします。
 最初は「愛」「悟り」を語りながら、その教義の組み立て、理論はどうあれ、布施や伝道によって、お金と時間を奪われていきます。


気がついた時は生活の中心が教団の活動の為となり、ロボット奴隷になっていきます。この世的栄華に執着するカルト教祖にとっては人を騙せればどのような教義であってもよいのです。
この世的成功を煽り、魂のエリート意識をくすぐる階級や過去世を利用する事によって人々を縛っているだけなのです。


 このようなやり方は人類の歴史上何度も出てきます。それだけ、「外なる神」を設定する事が人間を洗脳させやすいのでしょう。

結局このカルトの手法は、物質世界に縛り付けるものでしかありません。


真実の世界は、「外なる神」などいないのです。「内なる神」のみです。


 「内なる神」とは自己中心的に考える事ではもちろんありません。内なる精神は神と繋がっている事を感じる事なのです。それを他者に感じてこそ、本当の救いが訪れると私は思っています。


 真実を示す事なく、霊界を語りながらも、3次元世界での貴族的生活を得たいが為に、人々を愚弄し騙し続けるカルト教祖というものは確実に精神を病んでいます。
精神の安定を得る為に大量の薬を服用している事でしょう。


 食に関しても重要な問題があります。
 
 感謝すれば何を食べてもよいというのは詭弁でしかありません。動物は本来人間に食べられる為に存在している訳ではないからです。肉食中心の生活や食べ過ぎている時の人間の姿を思い浮かべてください。

ガツガツ食べるその行為は獣そのものです。その精神波動がゆえに、運が無くなり、スピリット達のメッセージも避けていくのです。
カルトでは食の重要性を言わないのも特徴です。その点からもカルト教祖は様々な病に見舞われている事でしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー


目覚めよすべての権威から

続き10


人類は今の時期において
すべての権威から脱する時期にあるのかも知れません。

外からの権威は宇宙の法則から外れているとしたら・・・・
その結果が今の時代に噴出し始めているのでしょう。
いろんな分野で同様な事が起こっています。


宗教=悪  という構図も 宗教=善  という構図もあり得ないのかも知れません。

ただ、その時期において必要だったというしかありません。

そして、今の時期において宗教の洗い直しがされる模様です。
つまり、必要ないものを洗い落として、残るものを大切にして、さらに新しい真実を加えて行くというような・・・・

これは現代医学宗教においても同様、ドンドン洗い直しされて行くのでしょうが、、この超大宗教には残る部分が極く少ないのではなどと、心配していますけど。


とにかく、判断、結論を出すのは自分自身です。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー


 12.悟りと霊的覚醒

 宗教団体が教える悟りとは、常に伝道と団体支援という行為を抜きにしては語れません。まるで、人間の幸福は外なる権威に従ってこそあると言わんばかりだ。そこには、偽善と欺瞞に満ちている。とくにこの手法はカルト宗教に顕著である。

しかし、人間本来の内在せし能力は、全ての人間に備わっている。

悟りとは地上に肉を持って、霊的覚醒を果たしていく行為でしかない。


 断じて外なる権威に心を向ける事ではない、内なる神に同一化する事であり、それは、クンダリニーと同じものである。

教祖を生神様として信仰する事は悟りではない。

それは魂の後退を意味している。

内なる神と同一化するとは、本来の自己の姿になるという事だ。


 これから全ての宗教は燃える火の中に投げ入れられる。それは、不純物が入っているからである。炉の中で溶かされ残った金の部分が霊的真理であった事に人々は気づかされる。

 人類を分断して治める事に宗教は利用されていただけであった真実が今後明かされていく。

人類の意識の統一を阻んできた者が地上から平和と楽園を奪い去ってきたのだ。

イデオロギーもそうである。ユートピア実現という名目で同じ民族、仲間をも殺戮する暴挙に出る。

 現文明の歴史は、物質世界だけに執着する存在が作り出した幻想の世界である。
  その中で人類は操られ、踊らされてきたのだ。
  
  人間には、そのような卑しい存在に負ける事のない、遥かに偉大なる力が備わっている。

その事を気付かせないように、外に振り向けさせる為に数多くの宗教を生み出し、国を分割し、イデオロギーを作りだした。

そして、マスコミやTVを通じてのスポーツ、セックス、スクリーン(映画)によって、洗脳されていただけなのだ。だからこそ、一人でも多くの人が、いち早くめざめなければならないのです。
(2005.5.3)



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー


宗教の教えでは悟れない?

続き9

宗教は悟るための学校・・・という錯覚

以下の内容を読んでいると、どうやら悟るには宗教を卒業しなければならないかの様になっています。

いつまでも宗教の学校に通っている人達は永遠に悟れないのでしょうか?

真理を追い求めて・・というのが宗教への入学目的だったとしたら、
宗教を卒業しない限り悟れない・・・という矛盾

それは
ひと言で言えば、外に神(真理)を求めた結果なのでしょうか?
既に内にある神(真理)を否定する事が宗教の役割だと知ると、
いままでの地球上の宗教というのは・・・・・
いったい・・・・・ 

何の目的があったんだろう?



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー


 11.宗教の教えでは悟れない

 悟りは、教えに則っていれば開かれるものではないと私は思います。どの宗教であろうと開祖を超えるか同じレベルの悟りを得た者がいない事が証明しています。

イエス様もお釈迦様も一貫して言っていたのは、全ての人間は神の子、仏の子という言葉でした。それは、大いなる創造主と同じ能力が本来、我々人間にはあるという事を示しているのです。

 その発見には内なる自己を省りみて、内在する力を信頼していくしかないのです。

教えは人を縛り、宗教団体に利用され、金を貢だけの存在にさせられます。

そうならない為には、一人一人が神なる道を求めていく姿勢を保つ事なのです。「教え」ではなく、「道」が大切であるのです。その過程にこそ、悟りたる者が数多く現れるものと思います。


 人間を教祖の前で小さき者としたり、崇高な霊存在や宇宙人の前では、無力であると喧伝する集団には近寄ってはなりません。


彼等、闇の住人達は、人類そのものをいつまでも、奴隷のごとく操れるようにしておきたいだけなのです。我々には、もっともっと偉大なる力が宿っているのです。

それを隠そうしたのが、現文明の歴史でもあったと言えるでしょう。


 宗教団体に一時期学ぶのはその人には必要な時はあります。しかし、いつかは卒業していかなければならないものです。それは貴方が本当に悟りを求めているのならば。


(2005.2.6)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー



生き神様信仰

続き8


ここまで来るともう、自分のやってきた事そのまま見つめ直さないといけない所にいます。他人事としてどころでないのです。


詐欺と言っても、自意識があって故意的にやっている場合と、
自我意識ではそういう意識は全然なくとも、結果的に悪因を作っているという事もありますから、単純に十把一絡げに宗教や精神世界指導層を詐欺罪とするのはどうかとも思いますが・・・・・



しかし、たとえ結果的にそうなった場合でも、原点にさかのぼって訂正するべきは訂正しないと、死後の世界に行ってから気づいたとしてももう自ら戻って指導的立場には戻れないわけですから、これは偉いカルマを作ってしまったことになります。

必ず、とって返してその訂正をしなければ死んでも死にきれない心境になるでしょうから。

しかし、そう簡単に自分の思うままの立場に戻れるはずもなく、戻ったとしてももうその影響は大きくなりすぎていて、いまさら訂正などと言ってもかなりの時間と労力が必要になるでしょう。
また、そういう立場に産まれるとは限りませんから、おそらく自分で撒いた種を刈り取るには違った形でしかできないかも知れません。


願わくば、早期のうちに自分に代わってその当時の間違いを解消するような働きをして欲しいと願うくらいでしょうか。


そういう意味でも、もしも信者内からそういう自分の残してきた間違いや思い違いなどを訂正して欲しいと願っている教祖や教主、霊能者、精神世界指導者などがたくさん霊界に居るかも知れません。


しかも、この世の事はこの世の人間でないと出来ないとすると、こちらで能力が合った人ほど、向こうの世界での無力を知るかも知れません。


せいぜい「心を通しての呼びかけ、アドバイス」程度であった、実際行いとして出来るのはこちらの世界の人間ですから。


そこで、もしも、僕が教祖とか教主と仰いで居た人物があの世に行ってから、これはやはり訂正して欲しいと願っているとしたら(したらですが)、

この世で教祖や教主の教えをひっくり返す言動を行ったとしても、それは喜びはしてもムカツク事は無いでしょう(笑い)

どちらにしても、自分の人生は教祖や教主に縛られたものではないのですから、自己がその時点で一番正しいと思ったことを取り入れる事が宇宙の法則から言っても合っているらしいですね。


ダヴィンチコードにしても、キリスト教の中にそういう姿を浮き彫りにする為のきっかけになる働きをしているのでしょうね。


これはキリスト教ばかりでなく、この地球上の宗教すべての基礎となっていた「外の神」が長い間の刷り込みであった事が、「内なる神」へ気づく時期になったということでしょう。

下記はかなり厳しい指摘ですが、まあまあの思考法では出来ない長い刷り込みですから。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー



10.生神様信仰の愚かさ

 カルト宗教の最大の特徴は、教祖を生神様として拝ませる事にあります。「宇宙の根本神の生まれ変わりだ」、「我こそは救世主なり」と声だかに叫びます。


 信仰とは本来魂を開放させるものです。それは内なる世界の探究を通じて、神仏を感じとっていく行為でもあります。

それとは反対の方向へ導くのがカルト教祖です。

内なる探究に導かず、外なる目標ばかりに信者を追い立て、教祖を盲信する事をもって信仰とすり替え洗脳していく。

信者は心に疑問や苦しみを持ちながらも、それを押し殺し、救世主と信じて従おうとする。その姿を考えると私も胸が痛みます。



 聖なる者は自分を拝ませたり、崇拝させたりしません。
 
 
 
  外なるものに常に目を向けさせようとする者は魔界のものでしかないのです。
 
 イエス様やお釈迦様は自分を信仰せよ、と言ったのでしょうか。
 
 そうではないでしょう。「汝の心の王国を守れ」、「八正道を通じて心を整えよ」と信者に呼び掛けていたのではないでしょうか。



 又、生神様信仰に持っていこうとする輩は、行動パターンとして、王侯貴族のような生活を求めていきます。宮殿のような施設を欲するようになるのです。これは、独裁国家に見られる現象とまったく同じです。

ルーマニアのチャウシェシク元大統領、イラクのフセイン元大統領、北朝鮮の金など、独裁者の心理状態とまったく同じものが現れてきます。資本主義社会あるいは、民主主義国家においては、大富豪になった者で、宮殿を建設したものは居ないそうです。大邸宅はありますが、宮殿は造れないそうです。


 そのような心理状態を正当化する為に、次に出てくるものとして、イエス様の生き方を攻撃していくのです。
イエス様を軽んじ、貶めようとする言動を繰り返す事です。自分の欲望を遂げるのに、一番目障りな宗教家としての人生が、イエス様であると感じるからでしょう。

なんという卑怯な者達でしょうか。心の教えを説くべき指導者だと思っていたのが、精神異常者を出しかねない、犯罪者に等しい人間であるというのが、彼等カルト教祖の真の姿であるのです。

 人々は行く道を間違ってはなりません。自分の良心を押し込め、外なる者に従う道のその先には、狂気の世界が待っています。
(2004.6.11)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー

霊界通信

続き7


ここまで来るともうそのまま伝えるしかないですね。

霊界通信があるからこそ、多くの人がそれを頼りにして・・・という事の裏返しには危険も一杯あるというか・・・

一番大切なのはまずは疑って考えてみるか、直観でみるかでしょうけど、
それを判断する自分にも表面意識の自分と奥に控えている自分には天地の差がある事も有りですから、

後はおまかせです。 読んだ人に。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー


8.霊界通信(霊言、霊示)

 霊界通信とは、霊界からのメッセージを受け取り、人々の霊性に貢献する為に本来在るものであります。

 しかし、本物であるのか、偽者であるのかの判別は、霊的真理を知らぬ者には区別がつかないかも知れません。だれでも愛や調和の精神を語る事は出来ますし、ポジティブな心構えを説く事はそれほどむずかしい事ではないでしょう。

 であるならば、何を基準とすればよいのかが問われます。
 
 まず、そのメッセージに同胞への愛や思いやりのある話し方であるのかが問題です。そこを注意深く読み取らなければなりません。シルバーハーチの霊訓と比較されるとわかりやすいのですが、言葉の美しさと、わかりやすさに徹しているかどうかだと思います。

高次元のスピリツトになればなる程、この世的権威や支配欲に駆られた教えは無いからです。

 ましてや、地上にある、一宗教団体の為や組織の維持の為に、ここにこそ正しい法があるなどとは間違っても言わないものです。
教祖の生神様になる事に手をかす聖霊や天使はいないという事です。

 あくまでも受け取る人間の心境に合わせて説かれていきます。全てか霊的人生観の大切さに貫かれている内容であります。

 「お前が救世主だ」、「お主らが、世を救うのだ」等の言い回しをする者は低級霊か狂霊であると思っていいでしょう。このような高圧的な物言いや、その人の現在の霊性を考慮せず、一方的にしゃべり出す霊界通信は本物ではありません。

 それだけに真実の霊界通信は少ないと言えます。現在、世の中に目にする事の出来るものの9割は、霊性の向上にとって意味をなさないものであると思います。



 次に霊的真理を多少でも知っていても騙されるケースがある場合です。語る内容に宗教用語が並び、今まで知り得なかった心の教えや、心霊知識に接し、感激して、このメッセージは本物ではないかと思ってしまう場合です。

 しかし、あわててはいけません。その結論がどこへ向かっているのかが最大の問題点なのです。

9割は正しい、残りの1割に誤魔化しがあるかもしれないからです。


最終的にそのメッセージを受け取っている霊能者や教祖を賛美していたり、生神様信仰と絶対的権威を作り上げようとしている意図があれば、それは、天上界からの霊示でも啓示でもないという事を知って下さい。



 人の心の幸福をと言いながら、最後の所で教団の発展と教祖を祭り上げる為の行為を強要していないかどうか、ここが核心です。
本当に気をつけたいものです。


 その他に、最初の啓示は正しく、次第におかしくなっていく者もいます。表に出てくる啓示には、教祖や霊能者のプライベートな部分は出てこないものです。

ですが、ここに聖霊やハイスピリットからの戒めや禁止されている行為が入っているはずなのです。

霊的指導者になろうとしているのですから、当然の事です。それらを守らず、無視し、自分の欲得の為に突走った結果、霊示が降りて来なくなり、(当たり前じゃん!)その後、信者を欺き続ける為に芝居をするだけの、哀れな日々を送る事となるのです。

 どうあがいても、その責任は教祖が取らなければならないのですから、改心できるならば早めにすべきです。

といっても簡単に事がかたずく訳もなく、信者や会員の人生を食い物にしていた訳ですから、その罪は霊的にも限りなく重いものとなります。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー


こう読んでくると、罪というよりも、自分のしたことがあちらへ帰ってからより明白になるので、どうしても自分から希望してこの世に戻って撒いた種を刈り取らねば・・と 言うような、元教祖や指導者が多いのかも知れません。


聖人から凡人へ昇華しようとして・・・


自分への反省も含めて転載しています。
ひとごとではありません。じっさい。


それにしも・・・・耳が痛い、いや目が痛い   

これを本当とするか嘘とするかも各人の自由ですけど。

お布施と祈願

続き6


お布施と祈願

これは表裏一体の関係にありそうです。

祈願するとすると、必ず御礼としてお布施を上げる。

祈願しなくとも、なにがしかのお金を上げる行為はつきものだと思いますが、そのお布施やお玉串料のお金が教団を維持する糧となる訳です。

維持料や活動費は必要だと思う反面、あまりにも頻繁に出費となるお金となると、考えものです。

1時間800円の時給にてやっとの思いで稼いだお金、
月何十万円いや、百万円くらいは楽に稼ぎ出す人

お金の価値観は天地の差がありますが、それを同一に出させるような決まりや雰囲気があるとしたら・・・・

お金の切れ目が縁の切れ目となるような宗教だとしたら、それでもう価値が分かると思います。

これは今どこの宗教組織でも隠しきれない矛盾を生み出しているのではないでしょうか?

地上天国の方を作るなどと言って、どの派生団体も同じ様に立派な建物や庭園、美術館を作っている事を見ていると、どうやら、もう宗教のエゴ意識の方が大きくなって、本来の役目を終えている様な気がします。


大昔なら、教えなどを広める手段としての宗教組織は役にたっていたかも知れません。しかし、この時代あらゆる伝達方法が揃っているので、あえて組織など無くとも最低限度の活動費で広く世界に情報発信できる世の中になりました。



団体組織を拡大するという事が当初の目的「真理を広めるための手段」から離れてしまって、「権勢拡大」の様な形で、見える物質尊重を主にしているかの様です。

手段が目的にすり替わっていると思うのです。


物質の世界を主として拡大しようとすると、必ず多額の資金が必要になります。

それをあたかも神のご託宣の如く信者に思わせて、資金集めの為にお布施をしなければ幸せになれないような雰囲気を作ろうとしている組織があまりにも多い。

これは自分の体験でも分かります・

教え方によっては「お金を出す方が幸せになる近道」かの如く思わせる事も出来ます。自然な感謝から自由なお布施をするというよりも、それをしなければならないと思いこむ様な教えがあるとしたら、それはもう宗教どころでなく、それはカルマ製造業者に成り下がっているのです。


なんども書いておきます。
宗教組織は手段ですから永遠性のものでは無いと考える方が自然です。
永遠性の無いものはいつ畳んでもよいものです。
それが自主的か他動的になるかは別ですが、大自然の法則からみると、そういう結果になる方が当たり前です。

それを組織の方が大事だとばかり、世間に合わせているようじゃ、もう先進性は無くなっている証拠ですから、お役は終わったと思うべきです。

より素晴らしい教えの方に皆で参加しましょう

と言うほどの教師がいたら本物ですが・・・
そんな人は見かけた事がありません。




祈願についてもいろいろ理屈がありそうですが、本来の神は自分の奥底にあるとしたら、外の世界に求めるということはドンドン本来の神から離れて行くという矛盾もありそうです。



下記を参考になるかどうかは自分次第なんでしょうが、宗教に関わる人は今こそ考えてみる内容でしょう。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

7.布施と祈願

 お布施と祈願も宗教団体には付きものです。お布施の額は、一般社会常識で判断したいものです。しかし、カルト宗教信者や会員には通じないかもしれません。

教祖の説く法が絶対であり、社会的価値観より、教えの価値観が優先してしまいますから。

 いくら高額な布施を求められても、他者に盲信してしまうと、付いて行くしかありません。際限のない布施の要求に、疑問を持たず対応しようとするでしょう。哀れです、私自身本当に悲しく思います。


 布施とは求められてするものではなく、自分の富の一部を捧げる事によって、少しでも社会や世界が良くなってほしいという願いによって成されるものです。

 自分の生活や家族を犠牲にしてまで、するものでは断じてありません。ましてや、神仏や聖霊が物質的なお金など求める訳がないではありませんか。カルト信者はこの事さえわからなくなっています。


 教祖を盲信しているのは、自分の心の内に神を観る事をしなかったからなのです。

その結果が教祖の語る言葉を鵜呑みにし、それを心の拠り所としようとするから、マインド・コントロールが解けないのです。


 布施の高額化と強要は宗教ビジネスそのものであり、その事をわかろうとしない信者や会員は、ロボットのように従う、貢だけの存在になっています。その事に早く気づかなければなりません。これ以上、生活破綻や家庭崩壊を招く悲劇を増やさない為にも。



 次に祈願に関してですが、私の体験からは、縁のないようなものであれば、いくら頼んでも天界には通じないように思います。

 祈願とは宗教施設や団体に行かなければ出来ないものと、人々は思いこまされています。しかし、霊的真実はそのような事はないのです。

あなたが、人生で目標とする偉人や聖者がいるならば、その方に祈りを捧げてみるのが良いと、私は思っています。あなたが、尊敬し、どうしても惹かれる歴史上の人物ならば。あなたにとって、縁のある方だと思ってさしつかえないと思います。(あるいは霊団)

 もちろん、その時は、一人静かに、だれにも見られる事なく、祈ってください。必ず、なにがしかの答えは見つかると思います。当然、自助努力は大切ですが、聖霊や天使は地上の人間をいつも見守り、いつでも援助したいと思っているのですから。

 祈願の効果は、霊的価値観に目覚める為のきっかけとして、ある程度認められると思っています。その時は効果をしっかり確認してください。

そして、祈願料がやたらと高いのは詐欺だと思って間違いありません。効果はあるかもしれない、しかし、結果は自己責任などと言いのがれのを言う輩がいます。このような者は、良心の呵責を感じないのでしょうか。本当に反省すべきです。
宗教を学んでいながら、反省すらできないとは、一体どうした事でしょう。

宗教団体にいる者は、自分とは何者か問いなおさなければなりません。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー



過去世

続き5

過去世

「吾はなになにの生まれ変わり」だと言う興味深い過去生の自分。

必ず、自分がその時代においてかなり高名な人物だと「思いたい」のが俗人の考え。
では、凡人は

「あの時代は乞食をやっていて物もらいで一生終わった」
「あの時代は召使いで終わった」
「お役人になっていて、けっこう住民に悪いことをしていた」


などと、案外自分の過去生がさっぱりだなあ  と笑って言える人でしょう。


誰でも「自己の栄光化をしたい」という意識がありそうです。
だから過去生に置いても歴史上の有名人を選びたいという欲求が奥底にあると、そいう意識に反応して「偉い人物」の情報が呼び出されて来る

というのが、よく霊能者や自分自身で過去生を霊視したとき現れるのではないかと思えるのですが・・・・・


以下を読んでなるほどと思ったのは、
誰でも過去の権威(地位や名誉など)を引き出したいと思うのでしょうが、それが俗人の思考だというようです。

凡人はその時代に何の境遇にあったとしても、その時々に行った行為とその背景にあった思考が重要だと思っているわけです。


よく、過去に聖人として有能な霊能者として過ごした人がまた生まれ変わって来るという話しを聞きますが、それはまだ人として未完の状態だったと気づくのではないでしょうか。

よって再びこの世に出てきてやり直すのでしょうが、その目的とは?

聖人から凡人になるという目的のようです。

う〜〜む、これは考えものです。

偉大なるヒーラーとか、偉大なる思想家、宗教家、教祖、教主・・・

偉大なるという肩書きが 本来の自分を表していなかった・・
とあちらに帰ってから気づいたとしたら、

俗人と凡人の狭間にあるという聖人なのかも?


まあ、これはちょっと間違った思考かも知れませんけど、当たらずとも遠からずの観もありで、吾ら俗人は聖人を目差すよりも凡人を目差した方が「上がり」が早いのかも知れません????



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

6.過去世

 過去世とは、輪廻転生を前提条件としてのものです。ここで気つけていただきたいのは、過去世の権威を持ち出して、人々を従わせ、愛ではなく、劣等感や支配欲から他者を洗脳しようとする、宗教家や思想家の存在です。

 この者達は非常に危険な人間だといえます。過去に自分が偉大な人物であったと声高に叫ぶその姿に、真実の愛はありません。「私はブッダの生まれ代わり」と言ったところで、だれにも、確認しようがありません。そして、えてして個人崇拝、生神様として拝む事を強要し始めるのも、このような輩なのです。

 なぜ、内容で勝負しない、どうして、過去の偉人、聖人の名前を持ち出すのだ。彼等は、信者、会員を信じ込ませるのに、とても巧妙な方法をとります。耳障りの良い言葉を並べ、人々の心を捉えてから、自分の過去世は偉大であったと告げにきます。そして、個人崇拝に持っていき、布施と称して、際限なく、お金と時間を要求していきます。


 会員や信者は常に、無理に自分を納得させ、従おうとします。それは、聖なるものに従おうとする純粋な行為からです。人々の良心を踏みにじる行為はもっとも罪の重いものです。その事に早く気づかなければなりません。

 過てる教祖は、いつも天使と悪魔という二者択一の選択を信者に迫ってきます。その誘導には、教団の利益と教祖の拝金主義しかありません。会員や信者の幸福はまったく考えていないのです。悲しい事ですが、この真実に気づいた時の会員や信者さんの心境を考えると、私はとても心が痛みます。(涙)

 しかし、本来、真理の実践、愛の教えは万人が、それを確認出来るものであるはずです。

 信仰とは個人崇拝する事では断じてありません。魂の中心に神仏へと繋がる道を発見し、守る事であるのです。宗教団体や組織の為に信仰があるわけではないのです。信仰とは個人のものです。

 その教祖の語る、教えの内容と、人々をどこへ導こうとしているのかが問題であり、今一瞬の心境を大切に語りかけるのが、もっとも尊い教えであると、私は思っています。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー


神と自分の直接の繋がり

これを教えるのが教祖だとすると、そもそも、教団はどんどんそういう人をつくり出す組織であって、一時的な学校に過ぎないとなります。

すると、教祖は信仰の対象ではあり得なくなります。
教団も便宜上の組織であって、あってもなくても目的遂行がスムーズに出来るならよいわけですから、あっても無くてもよいものに左右される事もないわけです。


それが本末転倒してしまっているのが多くの宗教組織になっているのかも知れません。

イエス様もお釈迦様もそれを教えていたのに、まったく逆現象を起こしてしまって、主客転倒の宗教世界のようです。

自分の中にある神と繋がる様に導く事を教えるのが本当の教祖であり教師だとすると、組織の存続や拡大を主とするようになった宗教はもう既に役目が終わっているのでしょうか?



う〜〜ん、10年前の自分には考えられない様な事を書いている・・・・・
いったいどうなったんだあ〜〜(爆)


カルト宗教

続き4
カルト宗教

宗教を否定するわけではないのです。

宗教によって、人がより自由になる

事ができればよいだけです。


しかし、宗教によって、ひとが不自由になるとすると、これをカルト宗教と呼ぶのかも知れません。

本来、宗教は宇宙の真理、すべてのひとは自由なんだという事を説いて、ある意味精神的呪縛にあっている人々を自由に解放するために発生したものだと考えると、どうも、当初の意味から離れてしまっているのがいまの宗教、特に団体組織をもったものに思えてなりません。


精神的に呪縛されて不自由な人が宗教によって自由に解放された時、その人にとっての宗教はもう必要ないのではないかと思うくらいです。

宗教は卒業するもの。

宗教は人を不自由からより自由へ解放する為の学校

学校はいつまでも通い続けることなく、ドンドン進級して最後に卒業するものとすると、宗教も入った者はドンドン卒業を目差して行くのが自然だと思うのです。

いつまでもその学校に居続けるというのは、その学校の教えかたが間違っているか、教師の教えが悪いか、いつまでも留年する生徒ばかりという事でしょう。


いい加減、卒業してしまわないと、そこに居るだけで自由から不自由という逆コースになりかねませんから。

また、教師や学長の教えを越えてしまう位の優秀な生徒を作り出せない学校だとすると、三流の学校です。
○○大学を卒業して立派な社会貢献する様な発明や発見をしている生徒はたくさんいるわけですが、あそこの学校は入学ばかり勧めているが、さっぱり卒業生が居ないし、師匠を超えるほどの人材が育たない・・・では、なんの為の学校でしょうか。

宗教も本来はそういう、教祖をも越えるか、教祖と同等くらいになるために、そういう組織(学校)を作った目的があるのでしょう。

それをいつまでも古い教材でいつまでも止め置くような学校は、大自然から淘汰されるのは目に見えています。

その自己崩壊の過程として、分裂や争いが起こるのはいつも上層部からです。

権威や権力というのはそういう大きな組織になればなるほど、崩壊の源になるという事です。

これはおそらく永遠性に近い宇宙の法則になるでしょう。


下記を読んでいてそういう気がしてきました。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー
4.カルト宗教

 カルト宗教、それは魂を狂わすものです。その特徴は不寛容と権勢欲にあります。
聖イエス・キリストは「真理は人を自由にする」と言われたが、その反対に魂を牢獄に閉じ込めてしまうのがカルトなのです。

 霊界探訪において、私が地獄を見たかぎりでも、カルト信者は、他と接触出来ない空間に閉じ込められている事がほとんどでした。

 寛容な精神が無い為に、他と比較したり、より良いものを取り入れていこうとする精神がありません。自分の所属する団体や組織が説く教えのみを盲目的に信じ、そこから出てきません。

 なぜそうなるのか、それは教祖・信者を含め、社会的に不遇であったり、この世的に成功しない不満のはけ口を、宗教に求め、その中で絶対的な権力を握る事により、他者を服従させたいという欲望が渦巻いているからです。

 天国にいる霊人は、どの宗教に属していようとも、皆、寛容な心で、全ての霊と接しています。勿論人種は関係ありません。(肉体がないのですから、当然ですが)

 カルト信者らは伝道、信者獲得にも非常に熱心ですが、相手の心境を配慮したりはしません、ただ教団の論理を一方的に押しつけ、相手の反論を論破する事のみに執着します。
あなたの幸福の為といいながら、自分の教団での地位向上を願っています。教団に取り込まれると、一変して、自分の子分か、服従者のような扱いを受ける事でしょう。そして、嫌気がさして、脱会しようとすると、今度は”地獄に落ちるぞ”と脅しをかけてきます。

 カルト的なものは、全ての宗教団体にみられます。現在、世界にある、仏教系、キリスト教系、神道系、イスラム教の中で、天国の心境とかけ離れた団体が数多く見受けられるのです。伝統宗教・新興宗教に限らず、教祖や代表、団体の幹部の精神的態度が非常に問題です、生活態度が支離滅裂であったり、言っている事と行動が違う場合、その組織に居る、信者、会員は、まず間違い無く魂を狂わされていきます。

 そうなるのは、霊性の力が足りないからなのです。正しく判断する力は、常により良いものを捜していこうとする意欲からきます。その中で信念が鍛えられ、間違いのない選択を自分自身の判断で出来るようになっていくのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー


ここで冷静な正しい判断力
というのが必要になってきます。

という事で、常に自分の判断が正しいとなれば間違いがないのですが、どうも失敗ばかりしているというのが普通の人かも知れません。



「そうなるのは、霊性の力が足りないからなのです。

正しく判断する力は、常により良いものを捜していこうとする意欲からきます。

その中で信念が鍛えられ、間違いのない選択を自分自身の判断で出来るようになっていくのです。」

この様に昔、真理だと教えられてそのまま継続して受け入れてしまう危険があり得る事になります。

その時代において真理だと思えた事も人類の進歩の状況に合わせてドンドン真理が奥深くなって行くと考えると、常に変化し得るのが真理だとも言えるからです。

真理は永遠に変わらない

というのも「思いこみ」かも知れません。

もっともほとんど永遠性のあるものと短期で変化するものとあるでしょうが、もともと「真理」と言われても、本当に永遠性があるものかどうかも判断しなければならないのです。

すると、常により良いものを捜していこうという意志の力が必要でしょう。


いつまでも「教えられた事」を鵜呑みにするだけでなく、常にそれに対しても批判の心も持ち合わせないと、タダの盲信になりかねないからです。


「教団の為」と思う様になったときは考え直す必要がありそうです。
「教団」などというものは、主役でないからです。
また「教祖のため」などと思う様になったときも考えものです。

ぜんぶ、「宇宙の法則」ーー「真理」を伝える時にある意味役立つ道具でしかありません。
だから、これらが主になったとき、逆転している事に気づかないと、後になって逆転の現象が必ず起こります。

(これは僕自身の体験から今になって気づいた事です)

イエス様もキリスト教も主ではない、お釈迦様も仏教も主ではない、
いま、こんな想いがしています。
したがって、ある人が現れて「救世主」などと名乗るという神話も本当ではないと想うようになりました。


また、自分が真理だと思って他の事に目や耳がいかない時、かなり固定観念に縛られている自分だと気づかなければなりません。


いつも見直し、嗅ぎ直し

で正しい判断。



と、手が勝手に書いているので、僕がこんな偉そうな事を考えている訳ではなさそうです。いや、奥の私が書かして居るんでしょ(笑い)

あまり偉そうな事書いて、自我は恥ずかしい!!


霊界観


続き3

霊界論は僕が宗教に入ってからより詳しく聞いたものですが、あの頃の情報は今になってみると、「古い」と想わざるを得ませんね。

人類は進化に合わせて情報を拡大して行くようですから、10年前の情報でも基本的に残る様な永遠性のものもあるでしょうが、その時点での真理が後になってもう真理からかなりずれてくるというのも事実のようです。

そのため、今の僕は先祖供養の為のお位牌や、お墓も必要がないのではと思っています。これが正解か間違いかはもっと後になってからでしょうけど。

実際、お墓参りやお仏壇参りは社会の慣習という様に解釈していれば、別に否定する事もないですけど、自分で特に率先して・・という気持ちはなくなりました。

あまり古い時代の真実は逆に新しい自分を見つけられない、ある種の固定をしてしまうこともあり得ると思います。

いろんな考え方や情報を得て、どれを今の自分にピッタリかという事で皆それぞれの取捨選択をしているでしょうけど、他人や権威に惑わされないという事が特に必要な時代になったという気がします。

と言っても、自分がいつも正しい選択をしているかどうかは、後になってみないとわかりませんので、今の考え方がまた古い考えの方に戻る可能性もあるという事です。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー
3.霊界観

 霊界は厳然としてあり、人類の本来の住処です。霊は霊存在として生活し、それぞれが個性あるエネルギー体として活動しております。この真実を理解せず、わかろうともしないまま、宗教を語る者がいます。

 人霊はあの世へ帰った場合、集合霊となって、一つにまとまるわけではありません。そのような説明をする原因は明確に霊界の構造が認識出来ていない証拠なのです。

 人間は、各人の心境に合った世界へ行き、そこで似通った者同士が集まり、神仏の法則の元に生き続けているのです。

 この世での生を終え、あの世で、宇宙空間にさ迷うがごとく、集合体として、個性もなく、記憶も無くし、吸収される存在では断じてありません。
 集合霊となるような認識は、幼い思考で考えられたものであり、霊界を真摯に探究し、努力をしてきた形跡が見当たらないのです。

 霊界と言っても、三次元世界の宇宙以上に広大無辺です。その世界の構造を正しく伝えられる宗教家や団体であるかどうかを、各人が見極めなければなりません。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー

「各人が見極めなければなりません。 」
という、この「見極め」が正直難しいところがあります。
やはり、「直観」が大切なのか。


先祖供養

続き2

先祖供養

私事ですが、
実は数年前にお位牌は全部 御燃やしさせて戴きました。
それまでは先祖供養は仏壇にお位牌をまつって、日々ごあいさつして、飲食物をお上げして少しだけで一杯になるから、残りは食べられない(霊界人の事)人達にお分けするその徳によって、御先祖様が霊界の地位が上がってくる・・

まあ、この様に思っていましたから、長子でもないけどけっこうお仏壇参りは欠かさずにいたものです。
ついでにお墓ですが、

今はお墓には御先祖様は入ってもいないし、将来の人類には形として子孫が集まって御先祖様に感謝する舞台として必要かも知れないけど、それ以上の霊的な意味は無いと思うようになりました。

霊界否定ではないけど、そういう形は形だけとしてあっても良いくらいに考えています。
自分はお墓に骨を入れて貰っても入れて貰わなくてもどっちでもいいです。
つぶして粉にして撒いてもよしですね。

そんな事よりももっと大事な事を教えられたのが最近になってですが・・・
それはまた別のところで・・・・・

もちろん、父と母には想い出すほどに感謝の気持ちだけです。そして、その時代の苦労は計り知れないものがあります。
また、その父母の親の時代にはもっと苦労の多い時代だったと想うと、いまある自分は御先祖様の恩恵を忘れるわけにはいきません。

しかし、自分の価値観は御先祖様の時代とはまた異なりますから、その独自性は大切にしなければと想っています。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

2.先祖供養

 不幸の原因を成仏していない先祖の所為だと言い。幸福になる為には先祖供養しなければならないと説明する者達がいます。「今のままでは、ますます不幸になる」と駄目押しをしてくる事でしょう。

 彼等は明らかに、商売の為に行っています。心底、人の幸福を願っていません。商売の為に先祖供養を言ってはなりません。

 迷っている先祖がいるなら、その結果の責任は、その先祖そのものにあり、子孫に責任は一切ありません。

 相談に行く当人にも、もちろん問題があります。それは、不幸の原因を他人や社会のせいにする傾向があるからです。どのような環境にあろうとも幸福な人生を歩む人々がいるものです。我々は謙虚に学んでいく必要があるのです。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー

霊的詐欺に遭わないために1

新しい話しを仕入れてきました。

これはとても考えさせられる内容でしたので、そのまま転載しながら、自分自身で考えてみたいと思います。

TITLE:霊的詐欺に遭わない為に
DATE:2007/02/11 12:44
URL:http://www5e.biglobe.ne.jp/~shinbi7/rei_sagi.html
より



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー

霊的詐欺に遭わない為に

by 光ノ矢



 現代では、霊的真実を知らないという事を利用して、人々を騙し、金品と時間を奪おうとする輩が多すぎます。このような現状を放っておくわけにはいきません。どこが間違っているのか明らかにしておきたいと思います。

 又、考える材料として、霊的知識を多くの人に知っていただきたいのです。判断する材料を皆さんと一緒に探究し、考えていきたいと思います。




1.浄霊とは

 手かざしや祈願によって、悪霊を追い出し、魂の浄化をします、という事をうたい文句にする者が後を絶ちません。

 悪霊に憑依されるのは、本人に引き寄せる要素があるからであり、それを一時的に念の力で追い払ったとしても、当人の心境が変わらなければ、又近寄ってきます。
原則として、自分の心を浄化するのは、他人ではなく、自分自身なのです。自分の今までの行為を振り返ってみる。悪気(怒り、妬み、嫉妬、愚痴、不平不満)が常に出ているなら、その原因を取り除く事です。悪霊は悪気が大好きですから、頭から煙のように立ち昇る者をめがけて、近づいてきます。

 浄霊を中心に据えた、団体や霊能者は要注意です。浄霊する側が欲望にかられ、清らかな心を持っていないとしたら、もっと悲惨な結果となります。それは、今以上に悪霊を付けてしまいかねないからです。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー


ここでさっそく「浄霊」という言葉が出てきました。

「浄霊」という言葉が十把一絡げに独り歩きしている傾向もあるでしょうが、原点としてよく考え直すにはよい材料かと思いまして。


この「浄霊法」というのは元来は手かざし治療として名前を付けた岡田茂吉なんでしょうが、その後そこから派生した新宗教、特にまひかり系団体なども含まれていると思われます。

本来の浄霊法とは太陽の霊的は力(火素と呼んだ)を人体を通して発揮する事で、霊体の曇りを取るというものでした。
しかし、いまやいろいろな所で使われている「浄霊」は憑きものとしての憑霊を取り除くという「除霊」の意味で使われている事が多いようです。

似ている手かざしでも霊を取り除くのと霊体を浄めるというのは異なるのですが、どうやら、全部の事を知っている人は居ないという事がこの世界なのでしょうから、
その方が見ている範囲での解釈だと思います。

しかし、現在の浄霊とは何かというと、もう宗教独占なものではなく、もともと人体に備わっていた能力開発、いや、そういう能力があるのが当たり前という時代になれば不思議でも特殊技能でもないわけですから、そういう専売特許的優位性がなくなり、日常どこの家庭でも必要な時は手当健康法として当たり前の世界になるのではないでしょうか?

そうなる前には、特定の宗教や団体などに独占されている期間もあるでしょうけど。
ただ、霊がかかるという現象についてはやはり、「自分が引き寄せている精神状態」が原因となっていると思います。

そして、自ら起こしている現象だから、自ら解決できるもの
として、他人に頼る必要はない と言えるでしょう。


基本は すべては自分にあり。
そして、すべては自分が解決できる

他に頼むのはヒントを得るきっかけを見つける場合としてだけでしょうか。
依存しないことかもしれません。

人類が神を見るのか神が人類をみるのか?


200年度版倉庫から 整理しないで捨てます。
その前に



2013: 人類が神を見る日、半田広宣著、徳間書店
 
図書館から借りてきたのだが、一言で言えば、脳みそグチャグチャ本であった。

もちろん、中のむずかしいヌース理論の理解はまったく出来なかった。数式とか理論などはどうでもよい。僕にとって一番の科学は感覚的に受け入れられるかどうかだけである。(これでけっこう失敗しているが・・)


 そういう意味では、チョー感覚科学と言えるものかもしれない。もちろん、チャントした理論では超弩級なのだろうがまったく理解不能! 脳みそになじませるには3年寝かせて置かないと(笑)

 
理論的に即理解できたらアナタは宇宙人。いや、「変換人」と呼ばれることだろう。新人類誕生である。

 
しかし、旧人類としては本の最初と後書きだけを何となく理解して満足してしまうようだ。森田さんの最新本の様に。
 気持ちよくしてくれる言葉だけで喜んで、分かったような気持ちになっている自己満足なのだが。
 



で、最後の著者の言葉。

 ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー


「(前略) 人間は神自身を映し出す鏡であり、人間を通してのみ神は己自身を自省することができる。



人間を創造したものが神であるならば、神を創造するものも人間でなければならない。

いずれ読者はこの物語の先に、神に対して受動的でなく、能動的にも振る舞える人間の姿を発見するだろう。


人間と神の間にあるこの「鏡の論理」を看破する知恵こそ神聖な叡智と呼べるものであり(中略) 神の眼は人間の眼差しによってこそ開かれる。

そしてこの眼差しによって証明された人間の営みこそが第一知性(ヌース)と呼べるものなのだ。」
 
ーーーーーーーーーーー以上ーーーーー


 
ニュータイプ人類は変換人のことらしい・・・・(換を入れ忘れないこと)
それにしても「宇宙には太陽系しか存在しない」「宇宙は人間の誕生と同時に出現した」「肉体こそマクロコスモスである」など・・・信じる信じないという次元ではないね。

 理屈じゃなく感覚で受け入れられるかどうかだけかも。
 

もし人類がこの理論が事実として受け入れる時、ノーベル賞など子供にあげるアメ玉(ごほうび)みたいなものだろう。



追記

さて2年寝かせておいたけど、まだ発酵充分でなし。

よって、また、再考まで寝ててください。



くだらない話に「ありがとう〜〜」

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その前に


ありがとうおじさんがやっている「ありがとうございます」の感謝行

ありがとうおじさんの感謝行がなぜ神に近づくのか?

「ありがとうございます」を繰り返し言い続けるのはどう意味があるのか?

何となく分かるのは、感謝は光である」という教えが宗教でもあるが、それを言霊の力で発信するといういうのかなとも思っていたし、曇りをとるには感謝が一番だとはあちこちで聞くところであった。

ただ心に感謝の念が無いのにこの言葉を発し続けてもどうなのか?という疑問もあった。

しかし、心の前にとにかくこの「ありがとうございます」を唱えることでいつかそれが心にも同調するというものらしいのは分かる。

心にも思わない状態でいてもそれをとにかく実行することで「霊体一致の法則」で霊の面でも同化するという様な。


この世界は物質面が強調されている世界であるから、とにかく身体を動かすこと、行動することが霊界に働きが起こるという。
それが言葉にすると効果が大きくなるというのは聞いて知っている。
言葉は物質界と霊界との両面につながっているのだろう。言葉にした音の波(振動)は霊界に強く影響するのだろう。

そんな漠然とした考えを持っていたので、むずかしい理屈などよりも、それを実行することの方が大切で、理屈などは後でくっつけられるものだと思っていた。

そういう思いを忘れかけていたところ、ある情報からも納得できるような解説がされていたのである。


^^^^^^^^^^^^以下引用^^^^^^

あらゆる事に感謝を唱え、生活する事は、自分の中に、恐怖を作らない状態を、創造している事なのです。この、【感謝】と言うのは、誰に対してするのかと言う事もありますが、その根本は、神に、自分に感謝する事に成ります。と言う事は何かと言うと、自分が全てを創造していると言う事に対する、感謝に成る訳です。

(それは)如何いう事だと思いますか?自分に、責任を持つ事に、繋がるのです。よって、これは、自分という者を表現した事の表明なのです。つまり、創造した事への、喜びを表しているのです。理解出来るでしょうか?つまり、ラムサも『全ての人に、神が在ると、言いなさい』と、言っていたと思います。感情に囚われない事を意味し、総ては、一つであると言う意味に繋がるのです。良く理解する事です。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^


僕は神に対しての感謝だと思っていた。
それには間違いはないのだが、実はその神こそ「自分」だったとは!

「感謝」とは自分が創造主である一部なのだという自覚を持つことにつながるのではないだろうか。
神を他においてみるのではなく、自身が神であるという自覚に到達できるのが感謝行なのかもしれないのだ。

ただそれを一気に認識できないので、とにかく「ありがとうございます」を繰り返し繰り返し唱え続けるのが一歩踏みだしの場になるのかもしれない。




^^^^^^^^^^^^^以下引用^^^^^^^

この【25000回の感謝】の話しは、大変、重要な学びを与えます。これは、この場合、自分をマインドコントロールする事で、自分と神との繋がりを、取り戻すと言う事に繋がりました。宇宙のエネルギーと、繋がったと言う事です。何故かと言うと、観察者としてのインナーの自己が認められた(認めた?) と言う事なのです。分かるでしょうか?大変、重要な事です。

人間は、如何しても、その(何等かの)出来事を自分の責任と認めません。(ところが、本当は、)全ての問題は、自らが引き寄せて来ます。(自らが、)創造しているのです。感情(考え方)から、病気等を引き起こすのです。マイナス・エネルギーの中にばかりに居ると病気に成り、プラス・エネルギーの中に、入ると治ります。



^^^^^^^^^^^^^^^^^^


これは25000回の感謝が自分を変える(気づきなのだろうが)という話を解説してくれているのだが、つまり自分と神との分離をマインドコントロールで忘れ去った状態を再び取り戻すためには自分で逆にマインドコントロールして元の状態に戻すことらしい。

神との分離状態はマイナスの場を創り上げているわけだから、プラスの場を創り上げる効果をもっているのが「ありがとうございます」の感謝の言霊パワーなのだろう。


こんな理屈など知らなくても良いのだが、ある程度知らないと、とてもこんなにたくさんの「ありがとうございます」を繰り返し繰り返し唱え続けることは出来ないのが人の性かもしれない。


次々と湧いてくる要らぬ思いでなかなかこういう飽きやすい事を持続できないからだろう。


こうなると薬毒と想念との関係も密接不離の関係になっているのかもしれない。

物質的原因として薬毒(体内毒素)
そして、きっかけとしての想念の積み重ね。

この関係が合わさっているのだろうが、光の性質の様に波の性質と粒子の性質が同居しているようなものかもしれない。


どちらが「これが原因」とも言えないところもありそうだからだ。
薬毒を入れていても何ともない人もいるし、想念的にどうかということを繰り返していても何ともない人もいる。

病気の原因は薬毒のみ
病気の原因はマイナス想念のみ

これの一つだけを正解とも言えるかどうか?


産まれたばかりの幼児やまだ悪想念なども起こさない子供が病気になる。
これだけを考えるとマイナス想念が病気の原因だとは一口に言えないだろう。


やはり霊と体の両面が微妙に絡み合ったものが原因とみないとならないだろう。
これが自己とか災難なども加わって、霊的と体的(物質的)に両面でのマイナス要因をみる必要がありそうだ。


だから精神面だけで病気を解くことも出来ないし、物質面だけで病気を解くことも出来ないのだろう。


どちらでも病気が治る場合もあるし、治らない場合もある。精神的面だけで治らないから物質的が正解とも言えないし、物質面だけで治らないから精神的が正解とも言えないのではと思う。


それともうひとつは、コナン・ドイルの通信では「前意識」と言っているがこの世に出る前に既に病気をセッティングして産まれてくる場合もあるというから、総ての病気を治す治療法は現時点では無いのではないだろうか。


将来はこの「前意識」というのが必要ない人だけになれば異なってくるだろうが。


思考
続行中

ついに超能力開眼

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今超能力者は 優しさ を発揮するひとを言う。

 この世に生まれて普通の人の能力を超える力を発揮する人を超能力者と言うけど、ここへ来る前は誰でも超能力者だった。ただ、それを使わないでこの世界で生きて行こうという冒険家なのだ。


 このきびしい世の中で生きて行く事はすごくつらいことが多い。

だから、だんだんと子どもの頃まだ持っていたやさしさを段々と忘れて行く。
 
 しかし、この世で生きているのはこの世で優しさをどれだけ出せて行けるかに、この冒険旅行の意義があるのではないだろうか。


 だいいち、思うままに出来る世界ならあの世でスグできるだろう。

物品移動だろうか、物質化だろうが、瞬間移動だろうが、思うままにできる世界はあちらの世界だろう。

 この世はそれが出来ないように制限しておいて、いかに自分ががんじがらめの様に見える世界で優しさを発揮できるかどうかの冒険旅行を体験しに来ているのだ。

 超能力とはこのきびしい世界で優しさを制限なく出せる力のことかも知れない。

一般に言うところの魔法のような力なんかじゃなく、普通の人間としてどれだけ優しさを出せるかどうかなのに違いない。



この世で魔法の力というのは、やっぱり


優しさをどれだけ発揮できるかの能力だねえ^^^^



といいつつ、

今日も、おっかあに意地悪している 優しさ っていったい・・?

あ、いや、題名でだますつもりは・・・

ねえ〜見ててよ〜目を離しちゃダメよ〜

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ねえねえ、見てて〜〜〜

 しきりに自分がこれからやる行為を、私に見ていて欲しいとねだる子供。はいはい」と言ってその子のやることを見ていると機嫌良く何かをやる。

 そして、ちょっと他の事に気をやってよそ見をしてしまうと途端にやる気を無くしたようにそれを止めてしまう。

「ねえ〜、見ててと言ったでしょ!」と抗議の声を上げて、またこちらを見るように即される。

 こんな経験がある大人、または子供の時に覚えがある人、どうして子供はそうなんだろう?って考えたことがないだろうか。
 
とにかく子供には自分の行動を見ていて欲しいのである。見ていないとつまらないのだろうか。なぜ独りで遊んでいるより、他人(親でも)に見ていて欲しいのだろうか?
 
 
しかし大人になるとそういう事はあまり見られないのもなぜだろうか。 人は他人に自分の行動を見ていて欲しいのだろうか。それとも見られたくないのだろうか。
 実はこの辺にまた何かありそうだからだ。


 
歌手や演技者は観衆に見ていられた方がやりがいがある。見られていない事はほとんど無意味に近いだろう。


では、一般人はどうだろう。

これは見ていられる方が気持ちよい時と、反対に見られていない方が気持ちよい時があるかも知れない。

どうしてだろうか。

こどもの時はほとんど見ていられたい事が多かったのに、どうして大人になると見られていたくない時が増えてくるのだろうか。


 どうもこれは大人になると価値観を持たされているからも知れない。子供の時にはあまり価値観などは植え付けられていないから、何かをやってもそれが成功とか失敗とかの意味づけなどしないのだろう。

だからただ見ていて欲しいだけでいいのである。

基本的には人は「他人から見ていて欲しい自分」を持っているらしい。 
 (自由な自分を見ていて欲しいのかな?価値観で見られると不自由な自分になるのかな?)
 

「他人が見ていない自分はつまらない」という感覚を初めから持っているのではないだろうか。すでに産まれてから他人と自分の関係を重視しているということだろう。
「自分がある」という存在感は他人があってこそのものだからだろう。

他人が認識できるから自分があるのであって、自分独りではその存在感が薄く感じられるのだろうか。

ともかく素直な子供時代はとても自分の見つめて欲しいという欲求があるのである。

 それが大人になってから薄くなってしまうのはどうしてだろうか。

それはきっと植え付けた「価値観」かも知れない。価値観を持つと「成功」とか「失敗」とかの様に行動することや結果ににいろんな価値観をつけてしまうから、見ていて欲しいのだが「失敗」とかいうマイナスイメージ的なものは見せたくない。見て欲しいのは「成功」的行為というか、自分の良い部分だけを見て欲しいことになるのだろう。

 「いい格好」なら見て欲しいが悪い格好は見られたくないという価値判断で分けてしまうのだろう。
 これが肉親とか周りの人たち、学校、社会からふんだんにインプットされてしまうので、自分の行動ばかりか思考までコントロールされてしまうようだ。


子供と大人の違いは価値判断があるかどうかということであるが、基本的にはやはり「他人から見ていて欲しい」という欲求があるのではないか。
 
「ねえねえ、見ててね〜〜。この池とんじゃうから」とか、「いまプールで泳ぐから見てて」「スキーはいて滑るから見ててよね〜」と子供は無邪気に催促するのは他人に自分をアピールすることだと思う。

自分の存在を証明してくれるのは他人だからだ。

自分を見ながら何かを行なうことはできないのだ。他人が居てこそ自分の存在が確認されているのだ。

 こんな欲求が死ぬまで含まれているのが人だとすると、他人は自分を推し量るために必要であり、存在を示すための存在とも言えるだろう。この様に人間は独りでは存在する価値観が見えてこないのだろう。神は複数か単数かと言う話もある。一神にして多神ということもある。もし独一神だとしたら、神は自身の存在感を感じることはできにくいのだろう。


 人を通して神は創造の妙味を味わうというけれど、やはり人も複数でないといけないのは、根本の神だけではそれを味わえないからかも知れない。それを「見てくれている」人が居てこそ「創造する人」の行為が光るのであって、誰も見向きもしない創造者などどんなに素晴らしい創造も価値観がないのだろう。

 幼児が自分の行動を「ねえ〜〜見ててね〜」と言って要求するのはこの辺にあるのではないだろうか。


 ひとには観察者という潜在的な欲求があるのだろうか。


思考続行中



もう充分いただきやした。失敗という体験

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なるほど、なるほど


悲しむ事ができる私、怒ることができる私、嘆くことができる私、嫉妬する事が出来る私、落ち込む事ができる私、○○する事ができる私、・・・・・・・それを見て喜ぶ事ができる私がそこに居ることに気づく時、すべて喜んでいる私。


 宇宙には喜怒哀楽を味わえない生命も居るという。

この地球で喜怒哀楽という感情を深く味わうことができる私。

 おなじ食べ物を食べても味が分からない人も居る。

しかし、辛いも苦いも甘いも分かるから、美味しいことが分かるのだ。甘いだけでは美味しくないのだ。ただ食べるだけだったら味わいなど無くても生きて行ける。
しかし味わいがあるからこそ食べる楽しみもあり、食欲も湧くというものだろう。


宇宙からみたらこの不自由な身体をまとって、しかも苦労の多いこの地球に降りたって来たんだろう。それはまさに「味わえる」体験ができる私を体験したかったからだろう。

この世の極限的な不幸も一過性の経験でしかない。この世界の旅から帰った時にはそれはリセットされる。幸不幸は比較性が無い世界では味わえない。
食べ物にまずい美味いが味わえるように。


もしも私に感情が無かったら、それはただ黙々として生きているだけの生命物体でしかない。この感情こそが私の冒険旅行を楽しむための大切なツールであるだろう。
それが分かると苦痛や苦悩さえもやわらいでしまう。

 それが分からないとそれにはまり込んでしまう。感情に支配されてしまう。
 

運命に翻弄されるのと、運命に身を委ねるのとはちょっと違う。

それは他者から制限をかけられて生きて行くのと、自ら制限をかけて生きて行くのとの違い。

他者が設定したものじゃなく、私が設定した人生行路。その設定もたった一つではない。選べる自由も含まれている。

ただ、初めに設定したことを変えると自分が満足できないから、また再挑戦することになるだろう。変えて良くなるというより変えない方が満足するというのだろう。


しかしこの旅行中はすべて忘れるのが条件だ。最初から何も先入観のない旅でないと感情も体験できない。なぜなら知っていることだったらそこには不安や怖れもないからだ。

不安が無いからいちいち怒ったり悲しんだりする事も極端に少なくなる。

喜びも少なくなる。

なぜなら「それらが起こることを知っている」から。


それでは冒険旅行の醍醐味を味わう事はできない。波が無い、ちょっとだけ揺れている海に行ってサーフィンを楽しむ事はできない。

私は時空のサーフィンを楽しむために来たのだ。目的は「楽しむ」ためだ。
 

 波の揺れの程度も自分で選んで来たのだ。中には揺れのほとんど無い海に来た人もいる。しかし、冒険心の強い人は超高波に挑戦し、荒波に翻弄されている人もいる。

みんなそれぞれ選んだ海の波が異なるのだ。もちろん似たような人もいるだろうがすべてひとりひとり質が違う。それぞれクォリティが異なる。


 世界中でおなじ指紋の人が居ないように(おそらく過去から未来まで比較してもおなじ指紋の人は居ないと思う)、神は同じものを嫌うようだ。似てはいてもまったく同質なものは宇宙には存在しないことのようだ。まったく同じ事の繰り返しもないはずだ。
 だからループというのは宇宙には無くて、螺旋の進行形になるのだろう。
そして宇宙には完全無欠なものは存在しないのではないだろうか。


完全無欠な性質は

完全無欠は動きがとれない、進展後退、拡大縮小などの動きがない、終わっているものだから。

この宇宙自体は何かが欠けているのが本質なのかも知れない。
「足りない」からこそ「満たそうとする」ーーーその動きが根本の宇宙の働きになると思う。

 
地球に生まれてきている人に完全無欠な人は一人も居ないと思う。きっと何かが欠けていると思う。きっと完全無欠だと存在出来ないだろう。欠けていて当たり前。だから間違って当たり前、むしろ間違うためにこの世界を旅している体験者。



間違いの無い人生には喜怒哀楽は必要ないのだ。間違いがあると感情が働くし感情があるから間違いも起こる。

荒波のサーフィンでこけて絶望したり、何度も失敗してから成功した時の喜び、ずっと静かな波で幸せ感を味わっていたのに急の高波に襲われのまれて溺れそうになったり、この人生は実に不自由なんだろうと思う時もあるし、そのまま生を終える人もいる。
途中でその不自由さこそ自由を味わえる条件なんだと気づく人もいるだろう。


しかし最後には皆が不自由の中に居て完全なる自由を味わえるという時が来るかも知れない。そのときはこの形のゲームも終わろうとしている時かも知れない。そして、いまこの地球はそんな事に気づき始めたのだと思う。なぜなら忘れていたことを思いだして来たようだから。



 苦難の冒険の旅もじゅうぶん味わったからこれからうんと喜びの旅にしようとみんなが思い始めたのかも知れない。いくら美味いものを喰いたいからと言って、その前に苦い物まずい物をたらふく食べて・・・というのもやり過ぎちゃあね。

 いくら何でも飽きちゃうって。

  もうまずい物のバリエーションは充分いただきましたので、本当に美味い物を実感できる準備は完了しましたよ、わたしは。(やけくそ宣言)


それでもまだまだまずい物が食べたいという人には「止めやしませんよ。けど余所へ行って自由に思う存分食べてくれませんか?このレストランはもうそういうものは置いておけなくなりましたので」


思考途中放棄・・・・・・・・・


人相が違う?地球の神と宇宙の神

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地球の神々
 
などと言うと、どうなってるの〜?


だいたい、神と神々が混同されているのかも知れないオツムで考えると、いったい全体何が何だか分からないのです。


 地球の神と宇宙の神との区別をつけているのかな?

そうなるとエライのはどっちだ?  って、すぐ優劣をつけたくなるのが長いあいだのくせであって、ほんとうは役割の違いなのかも知れない。


僕が宗教で教えられたのは「宇宙にはこの地球以外には人間は存在しない」というものでした。しかし、どうやらこの考え方はもう古いのかもしれません。


最近の情報をいろいろ吟味して見た結果。どうしても、この地球だけに人間の様な知的生命体が存在しているとは思えないのでした。それどころか、この地球上の人間生命体はむしろ広い宇宙からみた場合、少々劣っているのが現状だと思うくらいです。


 それには深い訳があるのでしょうが、表面的にみた場合は相当に低い位置にあるのではと思うばかりです。

その「深い訳」はひとまず置いといて、この地球人類がなぜこの様な低いとみられる状況にあるのか? という原因を探るとき、やはりそこは霊主体従の法則に則って、地球霊界の元締めたる神にその原因があるのではないかと思ってしまうのです。



これは広大な宇宙に対して地球という狭い宇宙での法則を作った神という存在がもしあるという場合なのですが、神に対してそれらを実際に運営?している存在を神々という複数存在として呼ぶわけです。



で、地球の神々というのがどういう考えをこの地球上の人類に教えているかが問題の核心となるのですが、それは古来からの幾多も出て来た宗教にその内容を見ることができるのではないでしょうか。


もちろん、宗教によってそれぞれ思想の異なるところもありますが、大同小異この地球霊界の主宰神というものを想定して成り立っているものでしょう。


では宇宙主宰神となると    どうなる?



思考停止・・・・・・・・・



薬を飲まないという「むきになる」形とは

親戚から言われた事がある。

「どうして、そこまで守る必要があるの?」

「守る」というのは向こうにしてみれば、耐え難い苦痛の中で自分の信条を曲げないで守り通すという意味だろうけど・・・

つまり、僕が「薬を飲まない」という掟のようなものをもっていて、それを破ることが出来ない「縛り」にあっていると思っているらしい。

要は、そんなにまでして「向きになって守るほどの信条ではないでしょ」と言いたいようだ。

薬を飲まないのは、別に信条とか教えとか掟とかじゃないんだけど・・・

「嫌なんですよ」というと、それも信じられないらしいから、もう無駄だなあ・・何言っても。

でも、実際は命かけてやっている様なものだから、このムキになるという風に思える行為は、彼らにして見れば恐ろしい奴に見えるらしい(笑い)

まあ、こちらの方から見れば、彼ら彼女らも立派な信者なんだけどねえ〜〜
こちらは信者と認識できても、あちらは信者だなどとは思いもつかないところが味噌くそかな(笑い)

だから、オレに言わせると、なんでそんなにムキになって薬を飲ませようとするの?と  言いたいんだけど。

あちら様は、医学教信者だし、薬信仰にのめり込んで、ハヤ○千年の古参だからねえ〜〜

かないやしません!!


下記はどうでもいんよう

ーーーーーーーーーー以下引用ーーーーーーー
しかし、とにかく、


こと精神的修行や宗教にかかわる者たちに限れば、彼らほど、ムキになり、感情的になる事を抑圧してしまった者たちはいない。


(とはいえ、そこらの宗教は、既に充分に、全くの感情的人種の集まりではあるのだが)そして、もしも人間の枠を超えた絶対真理や絶対基準、あるいは悟りの探求に向かう時には、その時は「ムキ」になれる資質こそが飛躍の鍵になる。


ムキになれるということは、結局そこに死活問題、つまり「命」がかかっている場合だ。

ただしそれは「熱狂」というものとは違う。熱狂というものは冷めやすい。熱狂は人為的な失望によって簡単に冷ます事が出来る。

だから、熱狂する者を追い出すのは、実に簡単なことであり、彼らの期待をほんの少しでも裏切ればいいだけなのだ。それには全く何の苦労もない。



だが、熱狂ではない「執念」は、冷めることがない。

なにしろ、自分の生命がそこに賭かっているのであるから、それは冷めようがあるまい。

探求に「命と、人生そのもの、死活問題が賭かっていなければ駄目だ」と私が何度も何度も言うのは、こうした、思考と感情と恐怖心の三位一体の効果という「全く法則的な根拠」によるものである




TITLE:はみだしQ&A集(EO):1DATE:2004/08/28 12:56URL:http://www.mumyouan.com/e/eoa2a.html
ーーーーーーーーーーー以上ーーーーー

すがたかたちと宿命と運命

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既に出来上がった形に入るのが宿命


 運命はその形の一部修正が有効な形、芯でなく外形というか、骨でなく肉とか皮膚とかいうような。


中国人には中国人の形、その他の国にもそこに生まれた時の形というものがあり、個々の人型に上にそういう全体としての形があるのだろう。

もちろん、この地球という形にすべてが含まれているのだろうが、その下に大中小のいろんな形があって、それに支配されていると考えられる。

このことをヌース掲示板で見かけたので紹介。

「日本語ならば日本語の体系の中にすでに日本人の価値観や世界観が組み込まれている。つまり、人間が言語を操っているのではなく、言語が人間を操っているという言い方もできますよね。ヌースでいう人間の内面の意識とは言語の機能と考えてもらっても結構です。人間の内面性は見える世界ではありません。人間が言語で構成した世界です。ヌースでは言語とは思形の力と見なします。 」


 こうなると言語というのはもうすごい支配力というか影響力があるようだ。


追記

どうやら人のすがた、かたち にもあるのかも知れない。

そういう型を選ぶというか、同調するというか、それにちょうどはまり込んで来るような・・・・・・


あんがい性格とか考え方とか、人の体型によって影響を受けやすいようになっているとしたら・・・・

これはもう血液型なんてよりもっと重要な影響力を持っているとしたら・・

いや、そんな事はないか?


う〜〜〜む、
カルマとは人の生き方、感じ方のくせとすると、こういうくせを表しやすい、現しやすい形、すがたなどがあるのかな?


そして、その型にはまった自分を変えて行くゲームだとすると、けっこうこれはおもしろい、いや、けっこう難解なゲームになるなあ・・・

思考停止・・・・・

集団輪廻ともうそう主

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集団輪廻

この世でもグループで仲良く一緒に幼稚園から小学校、そして中学、更に仲良く一緒に高校、さらに仲良く大学へーーーとグループで行くひとたちがいる。


これなら安心だし環境変化(学校ごと)にも対処しやすい。

 時には波乱があったりしてもお互い気心が知れている仲間が側にいるだけで安心だし対処しやすい。まあ、そつなく学校時代をおくることが出来るし、楽しい思い出もおおいだろう。
普通はこのコースが一番無難なではないだろうか。


 しかし、時には冒険家が存在する。

こういう仲良しグループから飛び出して、独りで行動しようとする奴だ。こういう奴は普通の人とはちょっと違っている命題を持つようだ。

またそのためにも仲良しグループの生ぬるい安心コースを抜け出してみるのだろう。一種の冒険家かも知れない。その代わり彼の人生は波瀾万丈になるかも知れない。

そして、時には孤独感を味わうだろう。それもあえて承知の助だから耐え抜く力を備えている。きっとその覚悟が力を持っているのだろう。



ところであの世へ行くと天国も地獄も無いと言う。

しかし、アチラからのチャネリングでは「あると言うひと」「無いと言うひと」様々である。

どうしてだろうか。

 それはその人が今居る時点での情報だからだ。そのひとにとってはそれが真実として見えるのだし、実際にその環境を体験しているらしい。

 ではなぜ、そのひとによって見えたり体験できるのだろうか?

それは、どうやらそのひとの固定観念であるらしい。

それがよそから植え付けられてしまった観念が自分の中でシッカリと固定してしまったから、その観念以外のものが見えない、経験できない状況にあるということのようだ。



 
で、天国とか地獄とかもそういう固定観念から創り出されるらしい。

その固定観念を崩すのはやはり自分の気づきなのだが、それにはどうしてもアドバイザーが必要のようだ。

まあ必ずついているアドバイザーが教えてくれる情報に対してその人がいつそれを受容出来るかで決まるらしい。


決まるというのは、その固定観念(少ない情報から固定してしまった偏りの観念)から自由に拡大された情報を受け入れる決断のようである。

そして固定観念を打ち破ることは地獄の方が天国よりもより易くできるというだ。

地獄という環境がそのひとの受け入れ易いという状態だからで、この世でも苦しい時に手をさしのべられると自然に手を掴むようなものか?(アドバイスを受け入れやすい)

 それに反して天国の固定観念持ちはなかなかそれを打ち破れない環境だということだ。天国よいとこ一度はお出で〜〜「こんな良い所をなぜ出なきゃならんのだ」って心境なのだろうか? 


この世でもそうだろう。何事もうまくいっている時、「あんたこれじゃ、ほんとうじゃないんだよ」などと言われても「なに言ってるんだい、良いことしたごほうび、もっともっと楽しまなくちゃあ〜」って反発されるだろうし、なんでこの天国が悪いっていうのか理解しにくいだろうから。

 
大体が天国と地獄と分けてしまったのが昔からの宗教であったようだ。良いことをした者は天国へ、悪い事をした者は地獄へ。



 それに実際に良いことをしたとか悪い事をしたという意識を持っているから、自分でそういう世界へ行くのが当たり前だと思っている。



死後の世界で見える地獄も天国もほんとうの世界じゃない、固定観念から創られた世界でしかないってこと。それ自体がどこかから植え付けられた固定観念じゃないのか?って言われそうだ。
 


これも後はその考えに同調するかどうかだけで、別にどれが正しいという訳でもなさそうだ。要はその体験を自分が欲しているかどうか、望まない世界は見えないし体験もできないというのが本当のようだ。


 つまり、それが在るのが先でなく、想うから在るというのだ。

マゼランの話で、先住民にとって沖合の船がどうしても見えなかったという話。生物学者(千島博士)が顕微鏡で発見した事実が他の人には未だ見えないという話。


ひとはそれを見てから発見と言うが、心の中で受容しないと見えないというのが真実なのかも知れない。
 

なんか表題の「集団輪廻」からまったくはずれてしまったようだが、初めに書いたように仲良しグループが一緒に輪廻する事例もあるということを書きたかったのだが、そこがマタギキの弱み、何か主題を外して余りある。
 
多くの場合、死後の世界で各人はアドバイザーによって大切な情報を与えられて休息中にいろいろ次の自分の人生の選択に取りかかる準備をするという。


しかしこれも絶対というのでなく、中には急いで次の転生を選んでさっさとあの世(こちらの世界)へと行ってしまうセッカチなひともいるようだ。


 確かに自分の次に選ぶ人生の選択権は自由なのだが、多数のひとが複雑に絡み合って存在している世界に、ただ単純に自分の人生を選んでみても想うように行かない。


何事も根回しが必要であり次の人生での関係する人たちとの情報交換(テレパシー)をじゅうぶんやってこそ、自分の意図する人生コースが決まるのだから。



それに選択したコースに合致する環境も知らないとならないだろう。その時は自然と波長が合うのだろうが、自由と言ってもその同調することがけっこう重要な作業?かも知れない。

だから死んで直ぐ生まれ変わるというのは、その以前からそれさえも準備していたのかも知れない。(それでうまく行っているような場合)


 この基礎準備をじゅうぶん行なっていない転生は、思いがけないハプニングを体験することが多いようだ。

しかしこのハプニングさえも後になれば貴重な経験として次の経験に生かせるのだから、何があっても無駄がない、無駄さえも有効になるのだから、「転んでもただでは起きない」エゲツナイのがひとかも。



 
こうして転生をたくさん経験して最後には輪廻を終わる時が来るという。もうじゅうぶん経験した人にとって同じ事の繰り返しは「飽き」ることなのだろう。


宇宙は同じものや同じことを嫌うようだ。

 浜の真砂さえ一粒ごとに異なり、ひとの指紋もおそらくずっと過去からこの先まで異なっているのではないだろうか。



だから同じことを繰り返す様に見えても、それは微妙に異なっているのだろう。

個性を創った以上、その個性をどこまでも大切にして行くのだろうか。

 もっともこの個性という性質がなくなったら、元の黙阿弥じゃないけど、宇宙も何もかも消滅してしまうだろうけど。在るものひとつひとつのすべての違いを分けているこの宇宙の取締役というのはどんなオヤジなんだろう?


って、オババかも知れないし、ネエチャンかも・・・・・もしその正体が分かった時点でアナタは消滅する・・・・なんちゃって。



 永遠に分からないというのが永遠の真実かも知れない。これだけは永遠かも。


という事で妄想停止・・・・・・・・

私はそうぞう主

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神は創造だと言う


そして人は神だと言う

では人は創造をしているのだろうか?


ある人は神が世界を創造して、そこに人を作って(創造して)配置したかの様に言う。

それなら世界は宇宙は、すでに創造された後である。

人はその世界に生まれ出てきて何かを学ぶのだろうか?

しかし、人は神だという。

神は学ぶのだろうか?

神は創造するのだと言う。

では人は創造しているのだろうか。

学ぶのではなく創造しているのだろうか。

なぜ創造しているのだろうか。

創造しつつ、それを眺めるのだろうか。

ではこの世界で人は眺めているのだろうか。

人は体験しているという方が適当かも知れない。


人は学ぶのではなく体験しているのだろうか。それも自ら創造した世界を。

総ては体験する世界であり、それを眺めている人は神なのだろうか。

神は創造を人として体験していると同時にそれを眺めているのだろうか。

病気・・そして、それは・・

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人はなぜ病気をするのだろうか。

それは原因があって、結果があるという法則だからだろうか。

なぜその原因を作ったのだろうか。

原因となる事を知らないからだろうか。

それとも知っていての事だろうか。

原因がなくても人は病気をするのだろうか。

病気そのものが原因と結果が同時に起きているのだろうか。

人が何かを間違えた事が原因なのだろうか。

間違いとは何が正しく何が間違いなのだろうか。

間違いでなくとも病気は起こるのだろうか。

病気はマイナスだろうか。プラスだろうか。それともゼロだろうか。

健康というのは病気をしない人には価値がないだろうか。

平和というのは争いがないことなのだろうか。

安定というのは不安定がないと判らないだろうか。

不安定という事はどういう事だろうか。

調和とは、不調和とは。

感情が無かったら平和も争いもないのだろうか。

感情が無かったら幸福も不幸もないのだろうか。

感情が無かったら病気も健康も判らないのだろうか。

動物には平和があるのだろうか。

不幸というものがあるのだろうか。



思考停止



わたしは神の化身かあ!?

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神は創造主として宇宙を創ったのか?
 
 「神はすべてを所有するものではない、成るものである。」

と聞いた。


 で、「所有」だとすると自分が創ったものを持っているって感じ、何でも創れる奴が居てどんどん、どんどん何かを創り出している・・・って感じだけど、「成る」というと、自分がそれに成っているという感じで、これって創造じゃなく、化身じゃないかい?

身を変えてしまうっていうような・・


 そういえばそうだなあ・・ どこかの材料を持ってきて何かを作るってんじゃなく、材料自体が自分だとしたら、創造するっていうけど、自分がそれに成るってしかないことか?

 
そうだね、「神はすべてなり」ってことなら、どこかから別に材料を仕入れてくるってのも変だな。 別にそれがあるのなら、「すべて」という存在じゃなくなるから。


  そりゃそうだ。神がお隣さんから材料を仕入れてきて何かを作るってんじゃ・・、じゃあ、その材料は何?そのお隣さんは誰?ってことになりそうだからね。神の別にまだ何かが有るというような。

 
やっぱり「何か」で創った宇宙じゃなくて、神自らそれに成っているってことかい。じゃあ、最馬場だけの特許じゃなくて、いっさいがっさいが神の化身てことじゃん。

それも人ばかりか、犬も猫も虫もゲジゲジもおぞましいゴキブリだって。

 そればかりじゃない、糞もそうだし、銀蝿だって・・・・

お・おお〜〜〜 なんてこったい、オレが見えているものすべてじゃないかい。あいつもこいつもあれもこれもみ〜〜〜んな。神の化身?



 じゃあ、みんな神の化身なら神の様に見えるかい?

おまえよう〜〜オレが神の化身に見えるかい?

 みえない、みえない。ゼッタイにみえない!!

 
まあ、そう言われるのは嫌だけど、自分でもそう思うものなあ・・



でも、本当に神の化身だったとしたら、神はどうしておれのような者に成ったんだろう?どうして俺になって生まれてきたんだろう?
 
オレってどうしてここに居るんだろう??

 ばあか、それを不思議研究所で調べるんだろう!


 あ、そうか。



もりけんさんの所へ投稿しようとして書いたもの   昔だけど



中止


あの世とこの世と今のわたし

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そのひとによって振動が微妙に異なっているーー

というのが最近の波でみた世界の仮説のようだが、その振動の違いを運命論に取り入れて考えてみた。


 
相談者の未来を見るというのは、占い者がそのひとと同期する事になるのかもしれない。


同期するというのも変だが、一人一人の世界は振動が微妙に異なっているものとしても、大体の筋は同じ集合意識(共通の振動上にある)で成り立っているのだろう。そのため同じ場所に同じ社会に同じ国、同じ地球という具合にほぼ同じ様な環境を見ていることになる。


それがまったく異なっている意識だとしたら、もう同時にそこに居る事はできないし、大きく異なれば同じ地球上に居る事もないだろう。

振動が大きく異なれば共鳴もできないし、他のほとんどの振動でかき消されてしまう。
 


で、同期するという事はどういうことなんだろう?

僕も最近になってようやく未来、現在、過去の仕組みの一端をここや他のHPから知ることが出来たので、その説を取り入れて考えてみた。
 

この世は時間があるし、空間もある。

それが当たり前のように思っているし実際に感じて生きている。

しかし、どうもあの世(3次元外のことで上とか下とかは分からない)ではその時間と空間の概念が通用しないというのだ。これは僕にとってはとてもオドロキどころではない。

あたま????の世界である。


でも、最近の科学者でもそういう仮説をたてたものがあるというのを聞いて、それなら仮にそうだという事にして見たらどうなるかを考えてみる。

時間が無いなら、過去も未来もない、あるのは今だけだ。



よく昔から聞く言葉「今がすべてだ」とかに似ている。しかしそんな事を実感として受け止めたことはまだない。実感できないのだから、たわごとに違いないと思ってもみたりした。



しかし、上の仮説ともうひとつの仮説、「時間が無い代わりに折りたたまれている」というレイヤー層の様に考える多次元宇宙という話である。


つまり僕らは今という存在と同時に多次元に他の世界がたたみ込まれているという考え方なのだ。
そして見ている(体験感、実感)、フォーカスしているのはそのうちの一つなのだという。

普通の人には同時に二つ以上の次元をみる(捉える)ことは出来ないようになっている。ちょうど、テレビで受信している番組は同時に多数あるのに、チャンネルを選べるのは一つだから、たったひとつの番組しか見られない。


(もっとも今は画面に二つ以上映るテレビも出来ているがこれは無視して)
これを例えるなら僕は同時に今、過去も未来も経験しているということになって、実際に見ているのは「今現在」である状態だという事のようだ。

ほかのチャンネルでは過去も未来も同時に番組としてあるのだが、それを見ていない(知覚できない)だけのこと。


 
そこで見ようとする番組はもうたくさん出来ている(初めからある)のだが、それは無数(∞)だから選ぶに不足などはない。ただ選べるのは一瞬一瞬にひとつだけ。



今選んだものが嫌だから他を選んでみる、すると自分の気に入った場面が出ていたのでそれを見続ける。すると又嫌な場面が出てきた。他を選ぶ、嫌な場面、次は?また嫌いな場面、次はまあまあこれで行こうって具合に一瞬一瞬にひとつだけ選ぶのだが、選ぶのは僕の自由なのだが、事前にどんなシナリオの番組になっているのかはまったく分からない。


そこで考えた。
 

そうだ! 今の番組もなんか気に入らなくなって来たし、他の番組に切り替えてみたいがどうなっているのか案内する者はいないのだろうか?


それにチャンネルを変えて良いものやら、このままで良いのやら?選ぶ僕には自信がないのだから、どうしてもそれを他の人から案内して欲しいのだ。


そこで僕はその案内人を訪ねることにした。

案内人は時空の水先案内人と言われる占い者であった。それが実によく当るのだ(過去)。未来も実によく当たり・・そうだ(これは確定できない)。

 
で、この占い者はどうして他人のチャンネル選びの画面が見えるのだろう。

占い者は客観的に他人の多数存在する画面を見ることができるから、占い者として居るんだろう。でも客観的というが自分もやはり相談者と同じように今の場面を選び、他者とはまた微妙に異なっている次元に居るのだろうに?




他人のチャンネル選びで出る画面を見るには同じ画面に同調するという事ではないか?

すると、占い者も相談者と同時にチャンネル選びに同期しなければならないだろう。

ということは、自分のチャンネル変更をしていることにならないだろうか?

いやそうでなく、いろんなチャンネルを高みの見物できることなのか?

 そうなるとやはりフォトショップのレイヤーの画像の重なりが見えるソフトが必要だということか。でもその時点での画面をずっとそのまま選択するかどうかはまた不明かな?選択権だけは自由だというから。


過去選択画面は記録として残っているが未来の選択画面はどれを選ぶかまだ決まっていないかも知れないし。



いやまてよ、この世界では過去未来が時間で区別できるけど、次元が違うと一緒になっているから、この考えは無効かも。



 う〜〜ん。 出るものが出ないと、最後に出てくる言葉はいつもこれだったりして。
 
 結局、チャンネル選びの仮説から考えると、下手な考え休むにいたるーーかのような愚かな答えが出て終わりそう。





しかし・・・・これを読み返してみたら・・・
  



 なんだ!これは!

これでは創造でなく、追体験でしかないじゃないか。


用意されている場面のいずれどこかに行くというか、創造だと何もないところへ初めて作るというような感じだけど、もともとあるところへ乗り込んで行くような・・・



まあ、自由なのは無数にあるその場面を好きなもの一つ選ぶという選択権を与えられているということだけなのかい?


絶対自由の様だけど「与えられている」と考えると、なんか不自由な感じもするし・・・で、「下手な考え」 休んでから、また再度やってみます。


中途放棄・・・・・・・・・・

自由な私が創った不自由な現実

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自由だから不自由

完全自由であったから、不自由を味わうためにこの物質世界で体験することを選んだ私。

そして「不自由を選んだ」という「自由」を忘れている私。
不自由感こそ自由感を知る(味わえる体験)ことかも知れない。ほんとうは自由なのに不自由に見えるのかも。
 
もしかしたら、この世界では不自由だと思わせる様に設定した私。そしてその様にはまり込んだ「ふり」をしている私。そしてそんな「ふり」さえも忘れている私だからこそ、体験できるのだ。

「不自由な私」を実感できるからもがき苦しむ私。
 
大富豪が今日の飯さえ困るような乞食生活や飢餓状態にはまり込むことができるだろうか?

心の奥底にはいつも「私はほんとうは大富豪なのだ。今は困窮の生活を体験するために一時的な状態にいるのだ」とわずかでも意識があったら、私は心の底からその生活や人生を体験できないだろう。
 
私は的を絞って今回の人生の予定を立てた。そしてそれを忘れている状態にして体験するのだ。そこには真底からわき出るかのような感情がともなうからこそ、この世界の良さがあるのだ。
本当に知っていたらもうゲームも体験も中途半端になってしまうだろう。
 
私は「知らないふり」をできる能力を自分で自分に与えたのだ。「知らない」状態だから「知りたい」という欲求が起きるのではないか。
もしも私が「すべて知っている」としたら、それを自由に直ぐにいつでも取り出せる状態になったた、この「知りたい」ゲームはもう終わりになるだろう。
 
一見して「不自由な世界」として認識している今の私は「自由」だからこそ出来た疑似体験世界なのかも知れない。
 「夢をみる」というが、実はあちらの世界からこちらの世界を「夢で体験」しているのかも知れない。

しかし、夢を夢とも思えない、それどころか現実そのもの感を創り出すために私は他の私たちと共にこの世界を創作した。
 
自由であるからこそ創作できるのだ。
 しかし、この創作ゲームも同じことの繰り返しの様に見えてきたし、ほとんど体験済みのものばかりになってきた。つまり似たようなことを繰り返し繰り返しやっていても飽きちゃったって事だ。
 
もうそろそろ私的に飽きちゃったから、思い出してもよいかな〜〜って気分が奥の私と同調し始めているような・・
 
それから、無能な(に見える)私は「ふりをしている」だけなんだからね。表面だけで優劣つけられてもしょうがない。

だいたい宇宙に欠けているものがあるからこそ躍動することが出来るんだろう? それならそこにはまっている私に欠けているものがあるのが当たり前だのクラッカー(古い!)

 不調和がなくなったらこの宇宙も素の黙阿弥じゃないけど、身動き出来ないだろうね。

(あくまで、ひとりごとです〜)

 自粛後懲りずに再投稿!


予防接種で病気予約って!?

予防接種は(病気の)予約接種?


こんな事を戦前から話していた岡田茂吉の論文はいまでも見るべき所が多いでしょうけど(と言っても全面的に受け入れる必要は無いです)、それも宗教家の論など鼻にも引っかけないという自称有識者たちや権力者たちとそれにまつわる番犬的メディアによって、大衆は大衆で「他人任せ症候群」であるから、どちらが悪いとか良いとかいう問題ではなく、共同して勧めてきたのが現代医学でしょうね。

現代医学の進歩によって病気は根絶するとか何とかいう標語は立派すぎるほど素晴らしい理念ですが、実際はどうなってんの〜〜と聞きたくなりませんか?

そんな事疑問にも思わない人たちが多いので、聞く人も居ないだろうけど。
現代医学が盛んに勧めているのが予防接種ですが、これも怪しいなどと言うと飛んでもない奴だと、お目玉を戴くのがおちですね。

以下の所を良く読んでから、怒るか褒めるか「自分で決めて」くださいね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下引用ーー
予防接種−『罪なきものの虐殺』への追補
ハンス・リューシュ著世界医薬産業の犯罪(三交社、原書1982年刊)より


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(管理者コメント) これは1980年代後半の時点でのハンス・リューシュの解釈を示したものだが、その結論は殆ど正しいと考えて良いだろう。その理由は、ワクチンの基本的な製造法に革新がないことと、ワクチンの有効性を示す確実な調査結果がその後新たには得られていないからだ。


この記事の中では特に、”予防接種が間違いなく持つ効果”は良く覚えておいて頂きたい。

すなわち・・・ある集団予防接種が開始されると必ずその発生率は急上昇し、その後下降して接種以前のレベルに落ち着く。


そのため、発生率をグラフにする場合、接種直後の急上昇の頂点を初年度にとれば、その後は発生率が下がっていると読めるのは当然だ・・・医者や医療ジャーナリストなどが予防接種の効果を示し人々を説得しようとするのを目にしたら、ワクチン開発以前の50年の発生率の経過を見せてくださいと要求してみればいい。きっとしどろもどろになるか、切れて怒り出す筈だ。彼らのウィークポイントは、予防接種推進の確たる根拠を持たないことなのだ。


参考資料:インフルエンザワクチンを疑え

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中略



予防接種の効果の評価が暖昧であるという状況は、化学・医学・動物実験シンジケートに手前勝手な主張を言いやすくさせる。

つまり、効果ありの統計的証明ができないということは効果なしの証明もできないということだ。

ところが、手前勝手な主張も、それが大学教授、研究所長、保健官僚などから出されると、国民はその主張が事実であり真実であると頭から信じ込んでしまう。

中略



この種の予防接種禍は、医学界がその権力をほしいままにしているような国では珍しくない。毎年秋になると、ヨーロッパ中の薬屋にはこんな広告が出る。「インフルエンザの大流行間近か!予防注射を受けましょう!」。そして、宣伝に乗せられやすい人々は列をなして予防接種を受けるのである。

今では医学体制派でさえも、インフルエンザの予防注射は大きな危険が伴う割には、予防の効果がないという点を認めているのに。


1981年十月一日、フランスで開かれていた予防接種禍裁判において、パスツール研究所前所長メルシエ教授に、なぜ研究所が

その無用性が広く認識されているインフルエンザワクチン
の製造販売をいまだに続けているのか、

という質問が向けられた。その時の教授の正直すぎるほどに正直な答である。


「研究費の助けになるから」。



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BCG禍

製薬業界の番犬とも言うべきマスコミが、

ポリオワクチン禍の全貌を明らかにするまでには、まだ20〜30年は待たねばならないだろう。

しかしポリオ同様に一般的なワクチンである結核ワクチンBCGの実態は、現在明らかにされつつある。BCGの問題がもはや無視できる段階ではなくなってしまったためである。

中略



・・・
イギリスの製薬・医学シンジケートの御用雑誌『ニューサイエンティスト』が、七九年、「インドの裁判で結核ワクチン敗訴」という長文の記事を掲載した。インド政府が要請した調査の結果を、それまで隠していたが公表せざるを得なくなったのである・・・

インド南部で開かれた結核ワクチンBCG評価の裁判で、驚くべき事実が明るみに出された。


ワクチンは「バチルス性結核には予防効果がない」というものである。

中略

この発見によって引きおこされた現場の困惑は、次の文からも伝わってくる。


このBCG裁判は昨年終了していたのであるが、その余りにも驚くべき結論のために、インド政府は、インド、WHO双方の専門家が、ニューデリーとジュネーブで数度の会合を重ね、その結論のもつ意味を十分に分析し終わるまで、発表を遅らせていた。次の文面はさらに興味深い。


BCG接種を受けたグループでの結核発病率はわずかながら、対照グループ(BCG接種をしないグループ)のそれよりも高い。ただし統計的に有意な数字とは言えない。


これにより、BCGの予防効果は「ゼロ」と結論された。


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「統計的に有意でなどと言いわけがましく付け加えてみても、BCG未接種の人々よりも接種した人々の方が、結核罹患率が高いという事実を糊塗することはできない。


実は、この結核発生率のパターンは、一般的伝染病発生率パターンを踏襲しているにすぎない(ただし医学界体制派はこれを見て見ぬふりを決め込んでいる)。

すなわち、ある伝染病の集団予防接種が開始されると必ずその発生率は急上昇する、その後下降に転じて徐々に接種以前のレベルに落ち着くというものである。


そのため、発生率をグラフにする場合、接種直後の急上昇の頂点を初年度にとれば、その後は発生率が下がっていると読める。

その際初年度以前の発生率が低かったという点を指摘する人などいない。

この数字のごまかしは、ポリオに関してとくに甚だしかった。

中略

(管理者注:このことは、あちらこちらとメディアで”専門家”が言っていること、例えば麻疹が絶滅出来ていない地域を示し予防接種が足りないためだ・・・が実はその正反対である可能性もあることを示している)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上ーーーー

詳しく調べる程によく分かるでしょうから、後はお任せします。

後はお好きな判断でどちらへでもどうぞ。

押しつけるつもりは毛頭ありません。


セロより偉大なるマジシャンとは?

最近のマジックは凄い

セロとかピーターとか、貫通マジックのえ〜誰だっけ。
でもやはりあの三姉妹が一番すきだ。
ホットパンツだし・・


とにかく、昔のマジックから数段進歩したみたいだ。
あれが異次元パワーを使っているという噂もあるけど、どうなんだろう。

だいいち、マジックだというからネタがあるのだろう。
もっとも、我々だって皆マジシャンなんだから、驚く事はない。
彼らは「不可能を可能にする」というマジック。
吾らは「可能を不可能にする」というマジック。

まるで正反対のようだが、実は同じパワー使いにはマチガイナイ!!

このブログで紹介した「日本人の知らない真実」  あれは

からくり

を説いてますねえ

思いは実現する

これを逆手にとってやってきたのが情報操作

これによって「誰かにとって都合の良い」思考に導く

すると、多くの人がこれにはまって、多勢になるほどその実現効果は素晴らしい。

そりゃそうだ。 多くの周りの人が実現効果を「私に」見せてくれるからだ。


たとえば「人は思い通りにならない人生を送る」と教えられて、それを信じれば、「思い通りになる」法則の通りになる。

ということは「私は思い通りにならない無力な人間だ」と思い込む事で、それが実現する。

要は「思いこませる」工作が必要だということだ。
それが成功すれば「思いこんだ」人が多くなればなるほど、「思い通りになる」という、ある種のトリック、マジック使いの様なものだろう。


「これはこうなる」と思いこんでいる人に「これはこうならない」と教え込むには相当時間がかかる。

「こうならない」という効果を見せてやる必要がある。
しかも、たくさんの例をだ。

「ウソでも1万回くり返せば真実になる」ということは、そういう意味だろう。

そういうカラクリを知っている者が意図して他の者を操作しようとしたら、この手を使えば良い。


そう、ウソを真実かの如く何度も何度も繰り返して言うことだ。
言うばかりか、文字にしたり映像にしたり、ありとあらゆる手段を使って、ウソが真実かの如く表現すれば良い。

それを信じる人が出てくる。
そして、ひとり、二人、三人・・・と数が多くなるほど、その効果は波及して行く。

そして、時間と共に効果は複利計算の如く増大して行く。

親から子へ、孫へとずっと年代を下るほど、その嘘はより真実へと転化されて行くだろう。ある限度まで。


こうして人類全体に渡って嘘が真実となってしまう。

もう、だれもその事を嘘だとは思わない。また、思えない。
というのは、それが実現してしまうからだ。

「思いこみが実現する」という法則によって、それだけ人は「ミニ創造主」としてのパワーを持っているからだろう。

「創造のパワーなど無い」と「思いこんでいる」人は、「創造のパワーを無いという状態」つまり「無力である」という状態を創り出しているわけだ。


それも「創造力」だというわけだ。

「自分には智慧がない」と「思いこんでいる」と「智慧がない」状態を創り出している事になる。

だから、そこにまた「刷り込み」として「あなたは智慧も力も無いから、他の優秀な人に委ねなさい」「智慧ある人、パワーのある人に任せなさい」という情報をくり返して流してやると、たちまち「思いこみ」によって、自分を無力化した状態を創り出しているわけだ。

力があるのに力が無い状態を創り出しているーーという、なんとも矛盾している様だが、それがパワーある人がパワーを封じ込めているのだから、創造の力というのは「実現力」だというわけだろう。


そういう事を逆手にとって、多くの人を操作して一部のものだけに都合の良い世界を創ろうと計画すれば、確かにそうなるだろう。

そういう人たちは秘密を知っているからだ。
「私は創造主だ」「思い通りになる」という自分を既に知っているのだ。
ただ、それを他の人にも知られては困る。


他の人たちが皆「思い通りになる自分」を発見したとき、他の人を自分の思い通りにさせることは出来なくなるからだ。

そのためには、そうとう高度な仕掛けをしておかないといけない。
途中でそれが解けたらマジックの終わりである。


多くの人をマジックにずっとかけ続けるには?
最初に書いたように、
「自分で自分をマジックにかける」状態に持って行くのが一番効果的だとう事だ。


一度かかったらそう簡単には解けないのが、
「自分で自分を縛るマジック」

「思い通りにならない自分」を創り出す人をたくさん作ることだ。

そして、覚めない様に常に呪文をかけていると、それは何世紀も続くのだ。
ついには、こちらから呪文などかけなくとも「自分たち自ら呪文をかけてくれる状態」になってくれる。

そうなると、もうそれほどの苦労も要らなくなるだろう。

勝手に自分でやってくれている夢遊病者の様な世界
映画のマトリックスの様な世界が実現してくれる。


しかし、宇宙は壮大だ。


実はこういうゲームも始める当初から既に設定済みだったとしたら。

ゲームの始めにあたり、ゲームの終わりも設定してあったのだ。
ゲームの上がりかたとして、最後にどんでん返しの様な物語を組み入れてあったようだ。


これもトリックというか、マジックの仕掛けであろうが、その事を「今まで自分たちだけが知っていたと思いこんでいた人たちが「知らなかった」という所がミソなのだろう。


「ゲームのすべてを知っていると『思いこんでいる』人たちのゲーム」がやがてもっと大きなゲームの上がりがやって来る時に「すべて夢の様に消えて行く」というゲームだということを。


つまり「無力である自分」を創り出している大勢の人達が、この大きなゲームの上がりの時になると、目覚め現象を起こしてしまうという事だ。


そうなると、いろいろな仕掛け、トリックがすべて見抜かれて来る。
まるで自分たちが催眠術をかけられていたかの様に、突然目を覚ます人達が増えてくるのだ。

その波及効果はさすが大ゲームの上がりにふさわしく劇的であろう。
相撲で言えば、押し込まれ押し込まれ続けて土俵の俵に足の指がかかっている状態にまで押し込まれた力士が最後の土壇場で大ウッリャリをかけてしまう様なものだろう。


押し込んで押し込んでせめて来た力士がヨイショヨイショと最後の力を振り絞って勝利を勝ち取ろうとしている場面を想像して貰いたい。


もう後が無い、負ける寸前に見える力士。僅かに足の指が俵にかかって反りかかている状態の力士。

もうちょいと押し込むだけで土俵を割ると思われる場面。


それが今の世界のゲームの仕上がりの所に近いのだろう。
特に日本は世界の先駆けだから、これに近いわけだ。


「思いこみ」がこの世界を創り出しているとしたら、うっちゃりを出すにはこの「思いこみ」の解除が鍵になる。


「思いこみ」を創っていた基は「嘘の真実にしたネタ」であるから、その「ネタ」がバレル事で思いこみは崩壊する。

マジックのネタ明かしがいま盛んに行われているのは、その為なのだ。
各方面様々であるが、中でも一番手ごわく「思いこんでいる」という医学が最後になるかも知れない。

この思いこみは素晴らしく効いているからだ。
だから、最後の土俵際のうっちゃり技は後世まで語り継がれる劇的な場面になるかも知れない。

もしかしたら、


うっちゃりの技が見られないかも知れないのだ。
まったく予期しないほどあっけない幕切れもあり得る。

攻め込んでいる力士が突然、両膝がヘナヘナとして自らへたり込んでしまった。固唾をのんで見守っていた観客は、あまりにも腰砕けな最後に声もなく唖然としたまま座布団を投げる気力も無くなっていた・・・・


最後は爆笑話で終わるが、そこへ行くまではゲームのまっただ中、誰もが熱中して見ていられるーーいや、実際そのゲームに参加しているのだから無我夢中であろう。



ん ? 焦げ臭い!






ああ〜〜〜〜〜 鱈の煮付けが焦げている〜〜〜

夢中になりすぎた・・

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